2011年、、

実に10年近くの期間をかけた破産手続きが完了した。

1980年代に栄華を誇った一つのキャリアは無理な拡大と無為な投資の果てに

再建不可能

とされ、破産、解散されることになった。

こうしてオーストラリアはカンタス航空の一強となった。

今回のお話はオーストラリアに存在したかつての第2のエアライン、、

アンセット・オーストラリア航空
を取り上げます。
(模型はヘルパ製 B747-300 1/500)
誕生は1935年、、
実業家であり飛行家のアンセット氏によりアンセット航空が設立されたことに端を発する。
資金集めの為か就航翌年の1937年に上場するも大戦中は軍の輸送にほぼ貸しきりとなる。

終戦後は中小のキャリアを吸収して勢力を拡大してくが、70年代末に自身も買収される憂き目にあってしまう。
アンセット航空を買収したのは欧州を拠点にする物流企業TNTとマスメディアのニューズコープの企業連合だった。
しかし、この頃が同社にとっての絶頂期であった。
1980年代に入ると、多方面への投資を強化していき、87年にはお隣のニュージーランドにアンセット・ニュージーランド航空を設立させる他、リゾート地への投資にも積極的になる。
またアメリカに設立間もないアメリカン・ウェスト航空(1983年設立)へ出資するなど新規の事業へも多額の投資を行っていた。

そしてこれが仇となる。。
1990年代に入ると、それまでの投資の影響が顕著に出てくるようになる。80年代に行った投資はほぼ失敗で、投資金を回収できていなかった。

業績の陰りが目に見えてきた96年、
事実上の親会社となっていたTNTは自身の出資分をニュージーランド航空へ売却することを発表、ニュージーランド航空側も受け入れを表明するが、アンセット・ニュージーランド航空は独禁法の都合で分離、TNTと共にアンセット航空を買収したニューズコープへ売却されることになった。
90年代中頃、、
懲りないアンセットは更なる投資に踏み込んでいく。
それが2000年に開催が決まったオーストラリア最大都市シドニーでのオリンピックの公式スポンサーの座であった。確かに宣伝効果は大きいが、そこに数百万ドルもの大金をつぎ込んでいた。しかしアンセット自体にはそんな余力はなかった、、

堅実な経営で着実に成長してき同業者のカンタス航空や国内外で台頭してきたLCCとのシェア争いで利益率は急速に悪化していた。
また、機材の多くが80年代中頃までに受領したものだったため、老朽化による整備コストの増加も更に利益を圧迫していた。

オリンピック開催間近の99年、アンセットは航空連合スターアライアンスへ加盟するが、多額の投資やオリンピックのスポンサー費用、競合による利益の圧迫で業績は悪化の一途だった。
そんな中、アンセットの半分の株を保有するニューズコープからニュージーランド航空が買い取る形で、アンセットはニュージーランド航空の完全子会社となった。
これが2000年の事だった。

2000年9月
ようやく始まったシドニーオリンピック!
アンセットは自社の一部の機体にオリンピックの広告ラッピングを施した。
もちろん同社の新鋭機B747-400にも施された、、が老朽化問題の先送りのため-400は全てシンガポール航空からのリース機であった。
(こちらはビッグバード製 B747-400 1/500)
またアンセットの業績は親会社となったニュージーランド航空にまで影響を及ぼす。
オリンピックのスポンサー費用はアンセットの財務状況では対応できず、親会社であるニュージーランド航空が補填する形となり、ニュージーランド航空の財務を圧迫する結果に。
挙げ句の果てにはニュージーランド航空がニュージーランド政府の救済処置をうける羽目にまでなってしまう。
(アンセットは倒産までの20年以上デザインを変えませんでした)
流石に耐えられなくなったニュージーランド航空はアンセットグループを分離、任意管理におき、イギリスの監査企業プライス・ウォーターハウス・クーパース(PwC)を管財人に指定しアンセットの再建を模索したが、、
PwCの判定は
再建は不可能
だった。
オリンピックから1年後の2001年9月の事だった。
再建不可を突きつけられたアンセットは運行資金がないため即日で全ての運行が停止した。
オーストラリア政府による運行資金への債務保証がなされ、一時運行を再開するが、あくまでも混乱防止のためであり、翌年2002年3月4日を最後に完全に運行を停止した。

その後会社の清算手続きが開始され2011年8月に破産処理が完了した。

急拡大の中で向こう見ずな投資や身の丈に合わないスポンサー契約の結果、身を滅ぼすことになったアンセット・オーストラリア航空。
この失敗は後生の教訓となっていったことでしょう。。