1962年に初飛行し1965年から就航した国産旅客機・YS-11。
180機という決して多くはない生産数ではあったが、そのなかでも多くのキャリアで運行された。
輸出された機体も多く、お隣、韓国の大韓航空では日本への国際線に投入していた。
また、YS-11の輸出先として有名なところに、アメリカのピードモント航空があった。
そんな輸出先のひとつには、、
日本から遠く、地球の反対側、、
南米はブラジルにもあった。。
ヴァスプ・ブラジル航空
(JC Wing YS-11A 1/200スケール)
1960年代末に導入されました。
サンパウロ州のコンゴーニャス空港をベースに国内線に就航していたようです。
頑丈さが売り、、
とも言われるYS-11。
ブラジルではヴァスプのほか、ブラジルのフラッグキャリアともいわれたヴァリグ等でも運用される。
180機の量産でしたが、輸出先は7か国に上り、
販売先は15社もあった。
月産で3~4機であったため、納品までに1年以上かかるほどに輸出は好調だった。
当時、同じクラスのターボプロップ機ではYS-11は最もサイズの大きな機体であった。
また短距離離着陸に特化した性能は、それを必要とするキャリアにとって重宝される。
そのため、少ないように見える生産数だが、当時ではフォッカー社のF-27フレンドシップに次ぐ販売機数だったりした。
しかし、好調な輸出がYS-11の生産終了の要因となってしまう。
円高の影響により減価割れの状態での販売が続いたほか、競合機種の台頭により割引での販売を余儀なくされたこと等により日本航空機製造の赤字が膨らんだ
また国策企業であった日本航空機製造のコスト意識の欠如もあり、国会でのやり玉にあげられる事態にもなる。

YS-11の生産効率の向上やコストダウンなどは殆どされず、身の丈にあわない開発計画ばかりに傾倒した結果、日本航空機製造は膨大な累積赤字をかかえ、1983年に解散となる。
その際には株主である政府だけでなく、生産を分担したメーカー各社も負担することになった。

YS-11の生産終了と日本航空機製造の解散により、販売ノウハウの向上やアフターサービスの拠点や保守部品の供給ネットワークの継承はされなかった。これが現在に至るまで日本の航空機産業に影を落とし続けることになるのでした。