1964年、、

戦後日本の歴史上一大イベントが開催された。

東京オリンピック

戦後日本の経済成長と復興を象徴する一大大会となる。

この大会直前にギリギリ間に合う形で国産旅客機YS-11は型式証明を取得した。


諸問題の解決で遅れたとはいえ、1958年にスタートした開発計画は4年で初飛行、6年で完成したのだから、当時の苦労が忍ばれる。


そんなYS-11は182機(内量産180機)が製造されるが、その1/6に当たる30機を導入したのがローンチカスタマーであった全日本空輸(以降:全日空)であった。

全日空向け1番機となったJA8644が引き渡されたのは1965年7月、、東京大会の翌年だった。

(全日空商事 全日本空輸 YS-11-100)
その機首、、無塗装のジュラルミン地に
オリンピア
の愛称がかかれていた。
1964年9月、、
東京大会の聖火輸送に従事した全日空はメーカーである日本航空機製造から試験2号機(JA8612)をリースし、YS-11にて聖火を運んだ。国民に広く航空産業復活を印象付ける狙いもあった。
これにちなみ、全日空ではYS-11にオリンピアの愛称をつけた。
(尾翼付け根の黒い点は水平尾翼の除氷ヒーターの換気口)
しかし、就航当時のYS-11は正に
あれもない、これもないの無い無い尽くしのヒコーキともいえた。
頑丈な機体は重量がかさみ、軽量化のために動翼への油圧の採用は見送られ、操縦は
人力!
オートパイロット
なんてものはもちろん、
気象レーダー
さえなかった。
パイロットは飛行中、常に操縦桿を握らねばならなかった。
機体を増備するなかで、改良型のYS-11A型が導入される頃、オプション装備にオートパイロットと気象レーダーが追加された。
しかし何れも多くの部品を輸入に頼る高級品、、どちらも搭載は予算的にむずかしい、、
全日空では
「どっちがいい?」
とクルーに相談したとか、、
結果、多くのクルーが
「気象レーダー!」
と即答したとか、、
それまで悪天候では勘と経験でダイブするようなフライトだったそうで、、
外からわからない天気にくらべたら、
重たくともYS-11の操縦桿の方がずっと素直だったのでしょう。
ちなみに、、
全日空はローンチカスタマーではあったが、初期生産のリスクを勘案したのか、民間航空としての受領は4社目だった。
最初の受領は東亜航空で航空局向けの量産1号機に次ぐ量産2号機だった。
しかし最初に営業飛行したのは日本国内航空で全日空と同じく試作2号機をリースしての就航だった(1965年3月11日)。

ところで、、
全日空向け1番機はJA8644なのですが、、
何故か模型は2番機のJA8645なんですよね、、

公式アーカイブでは

商品番号YS21147はJA8644なのですが、、

実際にはJA8645という、、

パッケージの絵もJA8645なので、、

なにか盛大な勘違いでもあったのだろうか??


次回は本土復帰前の沖縄を飛んだYS-11のお話