時は1955年、、

第二次世界大戦の終結により誕生したドイツ民主共和国(以降 東ドイツ)にて、周辺国と国内の航空輸送を行う組織として、国営航空 ルフトハンザドイツ航空が設立された。

これは東西において混乱を生む。

そもそも先んじて西ドイツで同名の航空会社ルフトハンザが設立、運行されていた。

双方が正当性を主張するなかで東ドイツは西ルフトハンザの東ドイツへの乗り入れを禁止し、対する西ドイツは東ルフトハンザの乗り入れを禁止にはしなかったが混乱を招くとして罰金を課した。

そして1963年、国際司法の場において西ドイツ側の主張が勝り、東ドイツの敗訴と同時に東ルフトハンザの改組の必要が生じた。

このため1958年にチャーター便などを運行する組織として設立されたインターフルークに東ルフトハンザを統合する形で、国営航空会社インターフルークが組織された。

 

元来は1958年の創業であったが、改組されたのが1963年であったため、国営航空会社としてのインターフルークは周辺国と比べてかなり後発であった。

改組当時の主力機は東ルフトハンザが以前より運行していたイリューシンIL-14やIL-18だった。

IL-18の導入は改組間近であった1960年頃より始まり、改組時点で5機を保有していた、、とされる。
この他にAn-2などの小型単発機も運行していた。これはインターフルークの多岐にわたる業務内容に理由がある。
 
インターフルークは民間輸送だけではなく、航空行政そのものといえた。
一般的な存在である民間輸送のほか、
農薬散布などの支援業務、空港でのグランドハンドリング、、、
さらには航空管制もインターフルークによって行われていた。
 
初のジェット機材はツポレフTu-134が就航する。当初は航法士席のガラスレドームの初期型が導入されるが、
程無く発展型が導入されていく。
就航路線は周辺国のほか、ロシアや中東がおもで、一部のアフリカ諸国にも路線を伸ばしたが、中国を除く遠距離のアジア方面への進出は遅かった。
事態が変わるのは1980年代になってから、、
初の本格的な長距離機IL-62Mの導入により東南アジアへ進出を始める。
同社にとってIL-62は名実ともにフラッグシップとして君臨する。
東アジア地域にも足を伸ばすようになり、定期便は叶わなかったが、日本へも度々チャーター機で飛来するようになり、アジア地域への路線展開も進めていた。
(インターフルークはほとんど塗装デザインを変えることなく運行を続けていました)
1980年代後半には東西ドイツの交流をかねたものか、西ドイツへのチャーター便の運行が度々実施されるようになる。
また、東ドイツ国内や周辺国への航空需要の高まりを受け、Tu134に変わる新たな中距離機の導入が実施される。
こうして1989年にエアバス社製のA310-300が導入される。またほぼ同時期にはデ・ハビランド・カナダのDHC-8も1機(恐らくウェットリース)導入される。
(一方で地方路線向けにチェコ製のレットL410なんて珍機も導入していた)
A310の導入からまもない1990年頃にはTu-154が導入され、これがインターフルークの最後の導入機となった。
 
Tu-154導入から間も無く、、
統一を控えた90年後半、、
インターフルークの一部機材が東ドイツ籍(DDR-***)から西ドイツ籍(D-****)に改められる。
91年の東西統一によりインターフルークは役目を終え解体となった。
路線は再編のうえルフトハンザに継承され、従業員も多くが引き継がれた。
一方で機材については対応が別れることになった。
機材の多くはアエロフロートに引き渡された。
一方でエアバス製のA310やほとんど運用されなかったTu-154や一部のIL-18はドイツ空軍へ編入され、ルフトハンザのフリートにはならなかった。
 
(今回の模型は全てヘルパ製 1/500スケールです)