時折、中部国際空港・セントレアの公式SNSで飛来や出発が取り上げられる巨人機がある。
アントノフ An-124
通称:ルスラン(以降ルスランと表記)
以前は成田や関空、時には神戸や北九州にまで降りたことのある巨人機は、現在ではセントレアにたまに降りてくる程度に、、それも決まったキャリアだけになってしまった。
ロシアによる蛮行が原因ですが、その中でも細々と運行を続けるのが、今回の主役、、
アントノフ航空です。
主力機材は巨人機として名を馳せるアントノフ An-124 ルスラン。
量産型の輸送機としては世界最強と称される機体です。
何しろメーカーであるANTKアントーノウの子会社、、メーカー直営のキャリアなのですから。。
メーカー直営のキャリアとしてはエアバスのコンポーネントを輸送するエアバス・エアトランスポートもありますが、自社製品の輸送に特化しているエアバスとチャーター貨物に特化しているアントノフ航空ではだいぶ形態が異なります。
どのような経緯でメーカーが輸送機を運行することになったのか、、
今回はルスラン誕生の背景を少し混ぜながら、アントノフ航空誕生のきっかけを紹介します。
時は1971年、、
ソ連空軍は慢性的に不足気味であった航空輸送能力の増強を迫られていた。
当時運用していたのは50機程度の大型ターボプロップ機アントノフAn-22であった。
当時のソ連空軍の輸送能力の脆弱さは西側諸国の諜報機関が「驚異となることはない」と称されるほど、、
戦力と輸送力のバランスが崩壊していた。
そこでソ連空軍(といいますか、指導部)は輸送機の増強とともにより搭載能力の高い航空機の開発を指示。
こうして誕生したのがルスランであった。
形態はアメリカ空軍のC-5ギャラクシーに似ている部分もあったが、異なる部分も非常に多かった。
大きく異なる点は
1)通常タイプの水平尾翼
2)非与圧のメインデッキ
3)軽量化のため複合材の採用
これらも起因しギャラクシーを越える搭載力を実現したルスランの試験機は1982年に初飛行を実施。
1985年のパリエアショーにて西側諸国にも正式に御披露目された。
ギャラクシーを上回る搭載能力、、
これを民間利用できないか、、
早くから西側諸国は模索し始めた。
政府間協議もへてイギリスのエア・フォイル社はソ連指導部と協議を実施、、
2年にわたる交渉をへてルスランのチャーター便運行の合意を取り付けた。
しかし、問題となったのは運行組織であった。
元々軍用輸送機として開発されたルスランはソ連において空軍とその令下のアエロフロートでのみの運行であった。
そこでルスランの維持管理と運行が行える組織として白羽の矢がたったのが当時のアントノフ設計局であった。
こうして1989年にエア・フォイル社を窓口としてルスランがソ連以外の国にて運行されることになった。
アントノフ設計局内での運行は運行開始の1989年から1993年頃までつづきます。
劇的に変化が生じたのは1991年のソ連の崩壊だった、、
それまでソ連指導部の令下であったアントノフ設計局はそっくりそのままにウクライナ政府の管理下におかれることになった。
市場開放を進めるウクライナ政府のもとアントノフ設計局は民間企業として再編される。
こうして国営の工業企業集団ANTKアントーノウが編成され、1993年頃にルスラン運行部門は分社子会社化されアントノフ・エアラインズ(アントノフ航空)となった。
組織として分離しながらもこれまで同様にエア・フォイルとの関係をつづけたアントノフ航空でしたが、2006年に大きく舵を切ることになる、、
同業他社であるヴォルガ・ドニエプルとの提携である。
2006年、アントノフ航空はロシアの競合者であったヴォルガ・ドニエプルとの資本・業務提携を発表、、しかしこれはずっと前から仕組まれたものでした。。
ヴォルガ・ドニエプルの設立はソ連崩壊の直前、、1990年、、そして出資者にはアントノフ設計局が名を連ねてました、、
一方で機材の喪失や受注の失敗、はては残存機材の老朽化によりエア・フォイルは経営に困窮、、もはやまともに提供できる輸送力はアントノフ航空のルスランだけであった、、
2001年、そこに新生ロシアにもパイプのあるヘビーリフトが助け船、、
(これはヴォルガ・ドニエプルに出資していたANTKアントーノウによる工作と思われます。)
エア・フォイル・ヘビーリフトとなり新たにIL-76等も運用できるようになるも、
2006年、アントノフ航空はエア・フォイル・ヘビーリフトとの提携を解消しヴォルガ・ドニエプルとの資本業務提携を発表。
もはやなす術もなくヘビーリフトはエア・フォイルとの合弁を解消し、2006年にルスランを西側で初めてチャーターしたキャリアは事業を停止、解散しました。
その後アントノフ航空はヴォルガ・ドニエプルと提携、お互いの機材を融通し運行することにルスラン・インターナショナルを合弁で設立。
会社規模は圧倒的にヴォルガ・ドニエプルのほうが大きいが出資比率は半々、、
これには1999からルスランが再生産されたこと、
共通運用17機中12機がアントノフ航空所有であること(なお、アントノフ航空が運用してるのは10機にもみたない、、)、、
等が起因してるものと思われます。。
続く、、
予告
アントノフ航空がエア・フォイルの下請けから抜け出すきっかけとなったヴォルガ・ドニエプル。そしてエア・フォイルとの合弁を予後なくされたヘビーリフト、、この二者の関係とは?
次回「ロシアンカーゴの実態」