まだ飛行機での旅行が特別なものであった1960年代。
アメリカ、ボーイング社が立ち上げたB747プログラムは当時の航空業界のトップに君臨していたパンアメリカン航空(以降パンナム)からの25機の発注で一気に注目を浴びた。
パンナムの発注を受けて多くの主要キャリアが競うように発注し、そのなかには当時日本のナショナルキャリアであった日本航空(以降JAL)もあった。当時の発注はたったの3機であった。
当時、世界最大規模のDC-8フリートを構成していたJALがB747を少数発注したのには苦い経験が起因していたという。
初のジェット旅客機の就航の際、JALでは機材の選定に時間をようしており、結果としてダグラスDC-8を選定したが、その間にパンナムやノースウエスト航空などの競合他社がB707を就航させたため競争力が低下。
当時の主力だったレシプロ機DC-7では太刀打ちできず顧客を奪われる事態になった。
その後は機材のジェット化も進み業績も回復したものの、再びパンナムに需要を奪われる恐れがあったためだった。
しかしB747は巨大すぎ、当時の日本の航空需要では供給過剰となる恐れもあり、主要路線で毎日運航できる最低限の機数として3機がまず発注されることになる。
こうしてパンナムから遅れることたったの3ヶ月、1970年4月に日本に最初のジャンボジェット、JA8101号機が就航した。
(JAL永遠の翼シリーズ ヘルパ製1/500)
ところが、就航するとJALは直ぐに追加発注を行うことになる。
それまで高嶺の花であった海外旅行だったが、ジャンボジェットの就航で座席の大量供給により客席単価の低下につながり、庶民にも手が届く値段に近づいていった。
その結果航空需要が急増することとなった。
初期不良に悩まれながらも、JALは次々とB747を追加で発注し続けた。
最初に発注した3機の100型の後に追加で発注したものが747の最初の派生型-200(B)型でした。
外見はほぼそのまま、、しかし-100型の設計を見直し、軽量化と足回りの強化、さらに性能向上型のエンジンを搭載し、航続距離も伸び、1万キロの航続距離を実現した。
(しかし日本からアメリカ東海岸までは直行するのは厳しかった)
ニューヨークと東京を直行していたのは当時パンナムの-SPのみであった。
リゾートむけ路線では十分な性能であった-200型であったが、ビジネス客ではパンナムの-SPに及ばない状態が続いた。
そんなかで2階席を伸ばした-300型の誕生が状況を一変させた。
まず、搭載エンジンが-300向けの高出力エンジンであった。さらに燃料タンクの増設を行い東京~ニューヨークを直行できる航続距離を実現した。
当初は2機がこの特別仕様で運航されたが、デイリー化の為か86年にもう1機増備され3機体制での運航となった。
機内の配置も特別仕様となり、ビジネス需要重視でエコノミークラスがもっとも少ない異例の配置であった。
登場当初は
ファーストクラス 44席
ビジネスクラス 128席
エコノミークラス 114席
であった。。
流石にやり過ぎたと思ったのか、3機体制になる前年の85年に改められ、
ファーストクラスは変わらず44席のままであったが、ビジネスクラスとエコノミークラスが変更され、、
エコノミークラスなしの2クラス仕様に進化します、、、
ビジネスクラスは204席に大幅増加し、最大で550席のジャンボジェットに半分以下の248席という、通常の定期路線に就航したジャンボジェットで最も少ない座席配置であった。
JALはB747を次々と導入していくが、投入路線に合わせ細かく仕様を変えて導入していた。
その結果、非常に多くのバリエーションを運航する事になり、さながらジャンボジェットの見本市のような状態になっていた。
気がつけばシリーズ合計で113機も発注し、パンナムやシンガポール航空から中古購入した機もあり120機近い数を導入した。
次回以降数回にわたり、そんなJALが導入していくジャンボフリートで特徴的な機を(独断と偏見で)取り上げて行きます。
予告
JALは機材の機材の効率的な運用より旅客が求める価値を提供する方針で路線により機材を使い分けていた。こうしてエグゼクティブエクスプレスとは真逆のジャンボジェットが爆誕する。
次回「モノクラスのジャンボ」