時は1960年代、
堅調に伸びる航空需要への対応が急務になっていたのは冷戦下であっても東西に関係はなかった。
先に世界初のジェット旅客機としてイギリスでデ・バビランドがコメットを完成させて以降、アメリカでもソ連でもジェット旅客機の開発が盛んに行われていた。
しかし、主翼にエンジンを懸架する方法をあみだしたアメリカのメーカーとは違い、ソ連でのジェット旅客機の開発、特に大型化は難しかった。
その中でとある情報を得た事で計画が大きく進展することになる。
こうして1962年に試作機がロールアウトし1962年に発飛行したソ連発の大型機、イリューシンIL-62であった。
IL-62の最大の特徴は4基のエンジンを尾部にまとめて搭載するというスタイルだろう。
こうすることで主翼のリソースを揚力発生の為だけに使うことができる。
また、主翼の前縁に段がある。
これは速度の向上と失速速度の低減をねらった設計と思われる。失速に陥った際に、この段の外側と内側で気流の流れを区切ることで主翼全体が同時に失速することを避ける狙いがあると言われている。
主翼後縁にはファウラー式のフラップがあるが、無段階で展開でき、パイロットの判断で任意の角度で展開できる。
T字の尾翼の先端に水平安定版があり、これはフラップの展開に連動するように角度が変わり、フラップ展開による機首下げ効果をある程度自動的に補正してパイロットの負担を軽減している(らしい)。
開発が始まると就航まで早いソ連だったが、初めての大型機ということもあり、量産化と就航には難航し、路線就航は1967年だった。
当初のIL-62は燃費が芳しくなく航続距離が3000キロ程度と短中距離機であり、運用もアエロフロート・ソビエトなど少数であったが、程なくして状況が変わる。
より性能の高いエンジンが誕生したことで、性能向上型のM型が誕生した。
航続距離は倍以上に飛躍的に向上し、共産圏の各国のキャリアで次々と採用されていく。
外見上は大きな違いはなく、特徴であるエンジン配置も主翼の形状も変更はない。
搭載エンジンが変更されても形状も大きく変わらない。
それでも性能は雲泥の差で航続距離は7000キロを超え、最大では10000キロに達した。
こうしてアメリカ製のB707やDC-8にも引けを取らない性能はIL-62の成功と長期に渡る運用が約束されたものであった。
(初期型とM型ではエンジンノズルに変化があり、リバーサー部分が無塗装なのがM型、エンジンナセル全てが塗装されているのが初期型です)
共産圏ゆえに正確な生産数は定かではないが、少なくとも200機を超える数が生産され、90年代後半、IL-96の生産とソ連の崩壊まで続いた。
しかし、エンジンの設計は古く、騒音が各国の規制にはいってしまい、就航先が限られる事態や冷戦の終結でエアバスやボーイングの機種に更新される形で引退し、もはや民用旅客機としては高麗航空のみとなった。
IL-62は政治的な背景もあり成功を納めた。
しかし、一方では悲惨な運命をたどることになった機種もあった。
次回「したものとされたものの明暗(後半)」