新型コロナウィルス感染症の世界的な流行の影響を受けながらも、羽田や成田、関空などへ路線を維持し続け、コロナ前では日本の地方空港へも路線を展開した中華民国(以降:台湾)の航空会社がチャイナエアライン(以降:CAL)こと中華航空公司です。
英語表記のChina Airlinesを対外的な名称として使用しながらも、日本では最近まで中華航空の名称の方が浸透していた。
なお、混同されやすいが、CALは台湾、中華人民共和国(以降:中国)の事実上のフラッグキャリアはエアチャイナ(中国国際航空公司)です。
混同を避けるためか、CALはコールサインを「ダイナスティ(王朝、支配者という意味がある、、)」としている。
今回はそんなCALで10年という短い間に運用された中長距離機材のお話、、、
事は1986年にさかのぼる、、、
当時の旅客機事情はある種の空白期間になっていた。
当時最大を誇っていたのはボーイング社が開発した大空の女王ことジャンボジェットの発展型B747-400(通称:ダッシュ400)。
そして中型にはB767やエアバスが開発したA300が存在した。
しかし、この時のB767は航続距離に難があり、双発であったもあり洋上の飛行制限が厳しく課せられていた。
A300も元々が短中距離機であり、長時間の洋上飛行を強いられる長距離路線にはB747系列かマクドネル・ダグラスが開発したDC-10が依然として運用されていた。
パイロット2人での運用を可能にしたB747-400の登場は民間航空に大激震を走らせることになった。
当時、長距離路線を運航する各社はこぞってB747-400を発注、、
中には発注残の-200B型からの注文替えで後発にもかかわらず早々と受領する強者(まぁ~ANAなんですけどね、、)まで出るほどの大人気機種になった。
ここで問題になったのが、キャパシティと後継機の問題だった。
B747-400は国際線仕様で3クラスにしても400名は乗れる大型機、、、
しかし、飛行距離が長い路線は必ずしも鋼需要とは限らない、、、
結果として、それが命綱となりDC-10は生き延びていた、、、
これはある種の好機!
DC-10の後継がいない以上、いち早く提供できれば、中型クラスの中長距離路線の需要を独占できる、、、
こうしてマクドネル・ダグラスは自社のDC-10の後継機の開発を発表するに至ったのだった。
開発は当初からDC-10の計画を発展させる形で推移した。
そのため、航空各社への提案時にはMD-100という名称で提案がされた(82年時点)。
その後の計画の骨子は以下のような内容だった
1)DC-10をベースにしてより余裕のある空間提供のため胴体を延長(以降:ストレッチ)
2)最新のアビオニクスによる操縦補助により2人乗務を実現
3)ウィングレットの装備による燃費の改善
4)ストレッチによる効果により水平尾翼を縮小し空気抵抗を軽減し低燃費を実現
こうして1985年にローンチカスタマーであるフィンエアからの発注を受け、正式にMD-11の名称で開発がスタートする。
(CALのデザインは非常に繊細で、特に尾翼の梅の花は全てデカールによる再現となっている)
一方で台湾と中国の対立は深刻さを増していった、、
これまで、台湾の国旗の色に合わせて塗装され、尾翼に国旗も描いていたCALだったが、鋼需要路線の台北~香港線の就航先、香港がグレートブリテン・北アイルランド連合王国(イギリス)から中国に返還される際に中国当局から台湾政府への圧力が、、
中国政府としては「台湾も含めて一つの中国」の方針なので、台湾を国家としては認めていない。
ゆえに国旗を付けた機材の自国領土への乗り入れを拒否する姿勢を示された。
これを受け、塗装変更を実施、、
現在の尾翼に梅の花を描いた塗装を採用した。これが1995年である。
台湾は立地上、国際線は全て洋上飛行となる。
日本や香港線は距離や空路の都合上問題なかったが、それ以外の国際線は洋上飛行の制限を受けるため、必然的に大型機になった。結果、当時のCALは機材構成がかなりいびつであり、B747に至っては-100、-200Bはもちろん-SPなんて珍種まで運用していた。
-100型を運用していたことからも察することができるが、CALにとっては洋上飛行が最大のネックになっていた。
そのため、飛行制限を受けない3発以上で余裕のある機材には魅力があったのだろうが、、
92年から始まったMD-11の導入は、、わずかに5機にとどまった、、、
(95年の塗装変更で採用された尾翼の梅の花はグラデーションが多用され塗装では不可能だった)
わずか5機の導入にとどまった理由、、それは現在のCALの主力機を見るとわかりやすい、、
2022年現在のCALの主力は圧倒的な数を誇るA330-300である。
このA330-300とMD-11はキャパシティがほぼ被ってしまう。
MD-11にとって最大の不運だったのは誕生が遅すぎたことだった。
MD-11が形式承認を受けたのは1990になってからだった。
その時でもあまり魅力のある機種ではなくなっていた、、
まず、想定していた以上に空気の抵抗を受けてしまい、当初計画していた性能を発揮できなかった。
これは姿勢制御システムのLSAS(エルサス)により重心位置を調整することで尾翼による抵抗を軽減することも含まれていた。
しかし重心は想定以上に機首よりになり、小さな尾翼は大きな角度を取らざるを得なかった。結果として空気抵抗が想定していたほど軽減できなかった。
更に搭載エンジンも当初の想定された燃費を実現できず、機体自体の重量(自重)も1.8トン近く計画より重くなり、結果として中長距離機としては致命的な航続距離不足となってしまった。
開発時にマクドネル・ダグラス社内のごたごたも影響し開発が遅れたことが最大の致命傷ともいえる。
(MD-11に至ってはどれも致命傷になりえる事態だった、、、)
初飛行が1990年にずれ込んだことで、キャンセルまで発生する。
この頃にはボーイング、エアバスともに双発の中距離機の開発を発表。
結果、3発機というのが微妙な立場になった。
(CALのMD-11は子会社のマンダリン航空で運用される事が多かった)
開発時の3発機は
4発より経済的で双発より安全
だった。
しかし逆に、、、
4発の方がより安全で双発の方が経済的
ともとらえられてしまう。
更に洋上飛行の制限であるETOPSの認定制度の確立により双発機でも(制限付きながら)洋上飛行を伴う中長距離路線への就航が可能になった、、
結果としてローンチカスタマーであるフィンエアでの運用が始まっても新規の受注を受けることができないどころか、むしろキャンセルまでされる事態に陥り、本来置き換えるはずだったDC-10の製造数にも満たない200機で生産終了となる。
マクドネル・ダグラスはMD-11の不振がある種の致命傷となり、業績が悪化。
かつては田舎者と侮蔑していたボーイングに吸収されるという屈辱の中で消滅することになった。
CALに導入されたMD-11もエアバスのA330-300に置き換えられる形でたった10年で退役することになった。
これにはMD-11のある種の事情もあった。
というのも、生産終了を受けて、アメリカのフェデックスやUPSなどが貨物機としてのMD-11の有用性を見て中古機市場で買いあさっていた。
結果、市場価値のあるうちに売却してしまった方が有益であると判断するキャリアが続出し、旅客型MD-11の急減へとつながることになった。
1990年にデビューしたが、それからわずか24年後の2014年、
オランダのKLMオランダ航空のMD-11が退役したことで旅客機としては終焉を迎えた。
なお、このMD-11、実は当時としては初めての装備がある。
それが主翼先端のウィングレット、、の下へ延びるもう一つのウィングレットです。
当時、これを採用したのはMD-11だけでした。
生産終了から15年ほどたち、B737に新たな装備スプリット・シュミタール・ウィングレットが装備され、MD-11のウィングレットを彷彿とさせる見た目に、かつてのマクドネル・ダグラスの技術陣の開発力の高さを感じたのでした。
次回
旅客機としては短命ながらも貨物機としての重要性を見出されたMD-11。
ここで永く活躍できると思われたが、、、
次回「双発の巨人」