本日は少々お出かけしまして、、

羽田空港にお客さんを拝見しに行ってきました。。

ワールドカップトロフィーツアーで飛来した英タイタンエアウェイズのA320。

コカ・コーラがメインスポンサーなので、デカデカとコカ・コーラのラッピングが施されております。。。

 

 

そんな平和な話題の一方で、現在の世界情勢はかつての冷戦に近い状況に思えてなりませんね。

そんな冷戦時、資本主義陣営(西側)と共産主義陣営(東側)の対立は技術面でも顕著で、完全に隔絶した状態になっていました。

その結果、航空機においても東西で全く異なる進化を遂げていきます。。

(まるでガラパゴスです。。)

広大な領土を持ったソビエト社会主義共和国連邦(以降:ソ連)では長距離を飛行できる輸送機が求められていた。

しかし、当時のソ連では効率の良いターボファンエンジンが開発されていなかった。

それ以前にTu-104という小型のジェット旅客機は開発され就航していたが、短距離でしか運用できなかったうえ、小型で輸送力も小さかった。

そこで開発されたのが、今回の主役、

ツポレフ設計局(以降:ツポレフ)によって開発された規格外のターボプロップ機、

Tu-114です。

まずはその特徴的過ぎるシルエットに驚かされます。

というのも、このTu-114は完全に新規に開発された飛行機ではなく、原型機が存在します。

それは現在でもロシア空軍にて運用されているTu-95戦略爆撃機です。

Tu-95の性能は目を見張るものがあり、航続距離は10000キロを軽々と超えるだけでなく、

プロペラ機であるにも関わらず最大速度920km/h(通常のターボプロップ機は700km/h程度)という、、規格外の怪物です。

ツポレフはこの怪物をベースに民間輸送機の開発をすることになりました。

基本的に以下の点の設計が変更されている。

1)胴体断面の拡大

2)主翼取付位置の変更

3)胴体の延長

元が軍用の爆撃機なので、そのままでは旅客機としては運用できない。

なので居住性の向上のため胴体の胴体断面積の拡大は必須であった。

また主翼から響く振動や騒音を軽減するため原型機では中翼配置だった主翼を多くの旅客機同様の下翼配置へ変更。

胴体は原型機のTu-95の49.5mから延長され54.1mとなった。

Tu-114で最も印象に残るのはこのジェット旅客機を思わせる後退角のついた翼の数々。

この主翼や尾翼は原型機のTu-95と基本的には同じものになっている。

胴体断面積が増加したことでTu-95と比較して速度は低下したが、それでも脅威の870km/h。

航続距離は、搭乗客数に制限がかかるが、最大で8900kmに達している。

まさにプロペラ機の常識を越えた化け物です。

またこの航空機の高い速度と航続距離を実現したのが

独特の雰囲気のある二重反転プロペラです。

通常、ターボプロップ機が700km/h程度の速度で飛行する中で、何故Tu-114が870km/hなんてけた外れの速度をたたき出していたのかというと、この特殊なプロペラが最大の要因です。

プロペラの回転速度を上げるとその分だけ速度は増していくが、プロペラブレードの先端の速度が音速を越えてしまうと途端に効率が悪くなり、推進力を得られなくなる。

これを防ぐためにTu-95で採用されたのがこの独特の二重反転のプロペラ。

このプロペラは回転数を抑えめにすることで効率的に推進力を得られるようになっている。

この手法はソ連以外では開発されず、現在においても最も成功した手法と言える。

(二重反転プロペラの話はまたの機会に、、、同じエンジン積んだ輸送機が控えてますので、、)

さて、、

なんだかTu-95の話になってしまってますが、、Tu-114に話を戻します。

実はこのTu-114、、ある世界記録を持っているんです。

それは世界最大のプロペラ旅客機!

その大きさは、

全長:54.1m

全幅:51.1m

全高:15.5m

ほぼ同じ時代の主力機であるボーイングのB707と並べてみると、、

ごらんのとおり、、

全長も全幅もTu-114の方が上回るんです。。

最大の搭乗客数は220名!

ジャンボジェットが飛ぶ現在ならばともかく、当時でこの大きさは破格の巨大さで、客席数もプロペラ機としてはけた外れの数だった。

一方でTu-114は独特の降着装置の構造(メインギアはTu-95のまま)をしていたため地上滑走が可能な誘導路なども制限される事態に。

それ以上に厄介だったのが、Tu-95より上がってしまったメインデッキまでのアクセスでした。

B707やDC-8が使うようなタラップでは届かなかった。。。

就航先でその都度このトラブルに合わされたためついにはタラップ車の上から、さらに上にあるTu-114のデッキまで上がるための継ぎ足しタラップを常備していたのだとか、、

恐らく、現代でこの機材が現役だったとしてもこの苦労は残ったことだろう。。。

 

ここまで優秀な性能、かつ原型機のTu-95が未だに現役であるにも関わらず、Tu-114の活躍は長くは続かなかった。

如何に性能が高くても二重反転プロペラの整備は煩雑でありコストもかかる。

結果としてソ連のアエロフロートのみの運行となり、製造は31機にとどまった。

さらに半ば急造での開発だったためか強度が不十分だったことによる金属疲労が致命傷となった。

量産機は1958~65年に製造されたが、1970年には金属疲労が原因とみられる亀裂が生じる事態だった。

また、ジェットエンジンの開発も進み、75年には性能が向上した長距離ジェット旅客機のイリューシンIL-62MがデビューしTu-114は役目を終えて置き換えられた。

なお、このTu-114の運用者は先述の通りアエロフロート・ソビエト航空だけです。

しかしこの機体のアエロフロート以外のロゴを書き込んだキャリアがあります。

それが日本航空。

日ソ航空協定の締結により東京~モスクワの航空路開設が決まり、相互での運行が決まった。

しかし、当時の日本航空はモスクワまでの十分な航続距離を有した機材を保有しておらず、給油のためのテクニカルランディングの要望も行ったがソ連政府はいい返事をしなかった。

(まぁ~それはそうか、、共産国では空港は基地との併用が普通でしょうからね)

その結果アエロフロート機による共同運航という形態をとることになり、アエロフロートのTu-114に日本航空のロゴと「JAPAN AIRLINES」のタイトルを追加して運行した。

操縦はアエロフロートのクルーが担当したが、客室乗務員は日本航空とアエロフロートの半々での構成となっていたそうです。

この共同運航は機材がIL-62に変わる1969年以降も続き、JALが自社運行する1970年まで続きました。

(なので短いながらもIL-62に日本航空のロゴがかかれていた時期がある)

 

さて、、次回!

日ソ航空協定を結び、西側陣営として初めてモスクワへ就航した日本航空。

そんな日本航空と当時の日本に衝撃を与えた機種のお話です。。