時空を超えて アオハルの時代 いつだって全力で

 

先週の金曜日「晤言会」が開催されました。高校第70回卒業生のクラス会ではあります。もともとはE組クラス会として発足したものが経年して今やクラスの垣根を超えて集う会になりました。

開催告知のメーリングリストには「第32回」とあります。当初は年1回の開催でしたが、そのうち秋にも開こうじゃないかと、年二回集うことになりました。もっともコロナ禍にあっては4年ほど開催しなかったので、回数がなかなか進みませんでした。

高校卒業時の担任の先生を囲んでクラス会を開きたいね、有志のうち何人かが集まってはそんな話題が出た時、世話焼き御大が先生のご自宅のある最寄り駅まで出向いて、駅構内にある公衆電話にて先生にお願いをしたことが、そもそもの始まりではあります。

先生は、集まりに出席してくださることを快諾してくださいました。私たちが卒業して22年目の記念すべき出来事だったのです。

翌年の第2回の集まりの時に先生が「晤言会」という名前を付けてくださったのでした。竹林の七賢人の一人阮籍の五言古詩「詠懐詩」の中からとられた言葉です。

 

日暮思親友 晤言用自写

 

「日暮れになって、しきりに哀愁が募り、親友がいよいよしのばれる。どうか、向かい合って心の中を語り合い、憂いの心を取り除きたいものだ。」

*【晤言】には『会って語ること』の意味があります。

 

ところが1995(平成7)年3月20日、何が起こったか!! 地下鉄サリン事件であります。この事件を伝えるテレビ放送をご覧になっていた先生はにわかに体調を崩されて、救急搬送もむなしくお亡くなりになったのでありました。

葬儀後に有志が集まって、何としても先生を追悼したいものだと。それには一周忌をめどに追悼集を作らないか!

 

こうして一年にわたる追悼集編集作業がスタートしたのでした。昔でいうところのガリ版刷りの冊子がいい、いやきちんとした本として残したい、クラスだけで出したい、いやいや先生が卒業で送り出した卒業生にも声をかけよう、生徒だけでいいのか、先生やご親族の協力を頼もう、それはそれは熱のこもった会議の連続だったのです。

 

そうして一周忌のご命日を発行日と刻んだ追悼集「さらぬわかれを」を刊行し、国立国会図書館へも納本しました。蔵書検索で「さらぬわかれを」と入力すると晤言会の名称が出てきます。

というわけで先生がお亡くなりになって28年が経過していますが教え子たちはお言いつけ通り集い語らっているのですよ。

 

でね、二次会に向かう連中がいるんだけれど当方はアルコールとは縁を切っているのでそのまま帰ろうかと思っていたら「おい、珈琲二次会に付き合え!」とのささやきがあったのです。

30分ぐらいしたでしょうかある一人が「ねえねえ、あと何年ぐらい生きたいと思っている?」と尋ねてきたのです。

 

1949(昭和24)年1950(昭和25)年生まれの第70回生ですから今年後期高齢者の仲間入りするわけではあります。卒業後56年が経過するわけで、これまでに何人もの級友を見送ってはいます。いずれはやってくる死期というものを意識しないわけではありません。

尋ねられて「あと何年生きるかなんて考えたこともないよ。死ぬまで生きるだけさ」と答えました。

 

「ええ? あれもしたいこれもしたいということはあるんだろう?」と重ねて聞いてきます。

 

「日々精いっぱい生きていれば、いつお迎えがこようが、ハイそれまでよ」

「それでいいのかい?」

 

「何の不足があるものか。いい人生だったと、笑っておさらばさ」

 

すると、向かいに座っていた友人の一人が「俺も死ぬまで生きるさ。ああもしたい、こうもしたいはあるけれど、それと寿命は無関係。炎が消えそうなろうそくの火を継ぎ足そうだなんで思わんよ」

「そんな馬鹿な、未練を残すじゃないか」

 

その友人はどうも納得はできないようでしたね。老いらくの恋にでも執着しているのかもしれませんな。恋のほむらは際限ないといいますからね。

いまだに10代のまだあげ初めし前髪の林檎のもとに見えしとき前にさしたる花櫛の花ある君と思ひけりの世界の中にいるとでもいうのでしょうかね。

 

肉体的にも精神的にもアオハルを維持しているということならあと何年などと指折り数えることもあるまいし。

 

球春や 世界を翔ける 大谷婚 (秋望)