先日、ある記者さんから取材を受け、
最後に、
「今までの介護生活の中で一番辛かったことは何ですか?」

と聞かれた。

 

しばらく、考えてみて

母、父、そして兄と長い介護生活の中で
その都度、大変なことはたくさんあった。

でも、その中でやはり一番辛かったのは
兄をグループホームに置いてきた日の事だと

そう答えた。

先日、この記事を書いたが、

 

 

この後、兄は無事に
豊橋市内の病院に2か月間入院することになった。

その間にケアマネさんと相談し、
グループホームを探すことになったのだが、
なかなか、空きがなく
ちょうど、開所したばかりのグループホームがあり、
そこへ、入所する以外に選択肢がなかった。

そして、退院の日。

まだ、若い30代の施設長とともに、
兄を病院に迎えに行った。

事前に病院では手続きを済ませ、
閉鎖病棟の大広間で
ボーとしている兄を見つけ、

「あきちゃん、帰るよー」

と声をかけると、
兄は水を得た魚のように
パッと明るい表情に変わり、

「じゃぁ、帰るー」


と言って一緒に病院を出た。

久しぶりに外に出た兄は
とても、嬉しそうだった。

 

そんな兄の表情とは裏腹に
私は緊張と不安で仕方なかった。

ショートステイの時のように
馴染んでくれるだろうか。


そう願うしかなかった。

そして、兄は施設長の車に乗り、
私は自分の車で、
まずは、グループホームの管轄医の
豊川市内のO病院へ受診に向かった。

 

受診は嫌がることもなく、
順調にいった。

しかし、私は
診察の待ち時間、
施設長の態度に違和感を持った。

そこで、彼は偶然にも元の職場の同僚に会い、
「今、自分で立ち上げて、社長として
 自分でやっているんだ」
と自慢げに話をして
兄と積極的にコミュニケーションをとることもせず、
また、
兄や私の気持を慮ることもなく
長々と元同僚と話し込んでいる。

 

兄は
(この医院は火葬場に行く途中にある場所なので)
「こんな所に来ると(1年前に他界した)親父のこと思い出すなぁ」

と、自分が今いる場所もちゃんと認識していて、
普通に会話ができていた。

そして、お昼近くになり、
「腹減った~。 途中に食事できるとこあったよなー」

と私に話しかけてくる。

この後は、グループホームで昼食になる。

 

心が痛くて痛くて、苦しかった。

 

そして、診察が一通り終わり、
そこから5分ほどのグループホームに向かった。

兄は施設長の車でホームに到着し、

私は少し遅れて、到着した。

私がホームに着くと
兄は10人ほどの利用者さんたちと一緒に
食事をとっていた。

私は応接室に案内され、
食堂で食事をしている兄をチラッとみたが、
さっきまでの嬉しそうな笑顔は全くない。

 

応接室で入居金の支払と契約書等を取り交わし、
施設長に質問した。

「皆さん、どのくらいで馴染みますか?」

そう聞くと、

 

「そうですね。人によって違いますが、
だいたい1か月前後ですかね。
まぁ、ある意味 ”あきらめ” ですかね」

という。

 

あきらめ?

一瞬、言葉を失った。

そういうつもりで、
この人はこの施設を立ち上げたんだ と。

ホームページには

「認知症の人が楽しんで笑いにあふれた生活を」



と立派なコンセプトを書いておいて、
利用者の家族にそれを平気で言うんだ。

(このグループホームはのちに厳しい行政指導が入ることになるが、
 この文言はすぐにホームページから消された)

当たり前だ。
入居者のことを家畜のように思っているようにしか、
考えていないとも思える。

この事が最初に彼に不信感を持った瞬間だった。

そして、兄の部屋へ行くと
年配の介護士が
あらかじめ、運んでおいた衣類などに
記名をしている。
挙句のはてには、
兄にも、
「ほら、名前かける?」
と言っている。

兄は、徘徊が始まる前から
すでに、自分の名前を書くことも困難だった。

全く、KYだ。

兄は、
「法事があるから、今日はちょっと・・」
と言い訳をいって帰りたがっている。

 

介護士は私に
「法事があるとか言っているんだけど・・???」

と私に聞いてくる。

兄とそんなに年の変わらないその年配の介護士。
自分が若くしてその立場になったら
気持がわかるだろう。

もっと、受入体制を考えておくべきじゃないのか。

兄は、だんだんと混乱してきて、
動揺を隠せず、半泣きで
「わけがわからん、わけがわからん」
と私にピッタリくっついて離れようとしない。

施設長はそんな事は意にも介さない様子だ。

その場はなんとか、
兄を撒いて帰るしかなかった。

 

帰り道、車の中で思いきっり泣いた。

翌日、電話をすると
「妹に連絡してほしい」と懇願しているという。

私は里心がつかないように、

しばらく、敢えて会いにいかないようにした。
 

実は後になって知らされたのだが、
その夜は窓から逃げ出さそうとしたり、
施設側も大変だったらしいが、

いろいろな事が発覚してから
介護記録書を提出させると、
そこには
「不穏」「不穏」
「放尿」「放尿」

それ以外の記録は全くない。

これについては
のちに行政に介入してもらった際に
その書類をみた役所の職員たちも
このお粗末な記録を目にしてと皆、唖然としていた。
そして、この事を私や行政から
問い詰められると社員のせいにしている。
経営者としても、完全に失格だ。

 


私は、2週間後、入所後初めて兄に会いにいった。
その時には、もう、すでに
私の知っている兄ではなかった。

私があらかじめ、
向精神薬剤の投与は
なるべく控えてほしい。
とお願いしてあったのにも関わらず、
家族である私の許可も得ず、

酷い、薬漬け状態で
悲しい顔と人生にあきらめを感じているように思えた。
切なかった。


入所からたったの3か月で
兄の残りの時間は奪われた。

 

本来の福祉はそうではないはずだ。

私がまだ、帰郷する前、葉山にいた頃
2012年に他界した

社会福祉の現在の礎を築いた
社会福祉学者であった

 

一番ケ瀬康子氏と交流があった。

康子先生は、常に福祉は「禅の精神が必要」だと常々言っていた。
要するに、
みずからを律し、万物に感謝し、
ムダを省き、生き方を見つめ直すこと。
そして「忘己利他」

その頃、介護とはまだ無縁だった私には
あまり、ピンとことなかったが、

今、その時に康子先生の言葉が
本当によくわかる。

「忘己利多」
これが、社会福祉の基本だ。
と私も思う。

ところが、
今の社会福祉は全く違う方向へ向かっている。

と痛烈に思う。

 

これから、
介護の会社を立ち上げたり、
仕事に携わる人には
今一度、気づいてほしい。

そして、
受入れの時から
すでに介護は始まっているということを。

自分や自分の大切な人、家族が
そうされたら、どんな気持ちになるか、
想像してほしい。