ニュースやSNSから聞く情報が全ての私からすれば、真実を知ることは難しく、知らないことの方が圧倒的に多い。
ウクライナ情勢が気になる。
それは、大国アメリカとロシアの戦いの縮図としてマスコミが取り上げているせいでもある。
今、ドネツィクやマリウポリは一触即発と聞くがそれはどういうことなんだろう。
ドネツィク1つを取っても、ドネツィク州、ドネツィク人民共和国と意味合いが変わってくる。
ロシアが侵攻しようとしている。
ロシアが独立国を支援しようとしている。
ウクライナは元々ロシアの1つの地域だった。
その他にも見る方向を変えれば、おそらくほとんどが間違っていないのだろう。
ただ、大義のぶつかり合いが起これば、必ず弱者に皺寄せがくる。名もなき人々が傷つくことなく、そして漏れなく全て手を挙げて喜ぶ戦争や紛争はあったのだろうか。
正義のために犠牲は必要という論理なのか。
どうして人間は変化を求めるのだろう。
発展と利益を求め過ぎて、人類と地球の後退と廃頽を余儀なくされているように感じる。
今が良ければ良いのだろうか。
確かに自分の何代も先の子孫のことまでは考えられない。
しかし、私の死後に娘達が戦争や災害に巻き込まれるなどして、平和や安寧を享受できないことを想像すると胸が痛む。
そして、おそらく娘達は子どもや孫ができれば、同じ思いを抱えるのだろう。
それ以前に、私が生きている間にもそれらの災厄が降りかかって来ないとは言い切れない。
それは、権力者も為政者も、そして、そうでない多くの人々もその思いはそれほど大きく変わらないはずだと思うのだが、なぜ自分達を守るために他者を踏みつけることができるのか。
それが、人類に組み込まれたDNAなのか。
この先、戦争をして何かを得ても、経済を成長させても、自然を破壊したことによって災害に見舞われて多くの命が失われたり、最後は人類が滅びてしまったら何も残らないと思うのだが。