私は基本遊び人なので
このようにまじめに文章を書くのはおこがましいのですが、
子供の頃から、学生時代を通じて
超がつく 遊び人(人生を楽しむ)の私ゆえに
人生遊びきるためにたどり着いた私なりの極意を
30歳から伝え続けています。
まあそれが 私の仕事(遊び)でもあるのですが…

私のプロフィール ※2019年のものですが…今もあまり変わらないので こちらは本文に関係ありませんが※

まあ 備忘録として 私のこの件(今回の自分が正しいに終始する 兵庫県知事の件)に対しての
今の気持ちを まとめて おきたいと思いました。※最近blog更新してなかったのもあり…※
まあ長文なので 読もうと思った人だけ…!




今回の兵庫県の斎藤知事の問題は、知識、思考、家から継いだあたりまえ、思い込み(つまり左脳!?)が主軸では、やがて多くの苦しみが自分を襲い、追い詰められ、自らの人生を蝕んでゆくということを私たちに気づかせてくれていると思います。(私はバブル期にたくさんのそのような経営者を見てきた経緯があり、特に痛ましく感じます。)彼は何らかの理由(痛み)で感性、本質、気づき、愛、そして自身の思いやりの部分にほとんどアクセスできなくなってしまったか、アクセスしなくなってしまったのだと思いますが、それは大変痛ましいことだとも感じます。

 

つまり、知識、思考、家から継いだあたりまえ、思い込みを使って、うまく(自我のいう「うまく」、つまり人の上の立場に立ち、偉そうにでき、安全になる)人生を乗り越えてきたという経緯や経験もあり、感性や本質や愛の意識とのアクセスがほとんど取れなくなり、知識、思考、やり方、方法だけで生きていける、うまくやってゆけると信じ込んでしまったのではないかと思えてならないのです。

 

これは、エリートと呼ばれる一部の人、または表面的な成功(大金を持つ、大衆に良く思われる)という部分だけを見て、そこに幸せ(良いもの)があると妄信してしまっている経験値の浅い(若い)多くの人(実際は大金を得ても、よく思われても、そこに愛がなければ戦いや恐怖、嫌われる不安などなど…要は そこに幸せはない ということを体験されていない人々)が大変陥りやすい過ちであり、ゆえに、今回の斎藤知事の件は、私たちに大切なことに気づかせてくれているのではないかとも思うのです。

 

どんなに努力して知識、思考をつけ、自身の正しさを発展させようとしても、愛の意識(すべてが一体の意識)が主導権を持たない人の人生は、苦しくなり、幸せは遠のき、癒しや安らぎからかけ離れ、生きる喜びを失う結果になるということを、今回の件は再度現実世界で示しているのではないかと思えてなりません。

 

では、知識や思考を発展させることは悪いことか?と言われると、それはまったくそうではなく、知識や思考を努力で大きくし、深め、たくさん積み重ねることによって、私たちの人生は豊かになり、便利になると思います。しかし、私たちの決断や判断の主軸(主導権)をそちら(思考、やり方、方法)が握ることが問題だと思うのです。

 

主軸を感性や気づき、愛(一体)の意識が握れば、思考(多くの蓄積された知識ややり方、方法)は有効に使われ、家から継いだあたりまえや自身の勝手な思い込み、自動反応などの悪しき習慣も、その内なる「意識や感性」によって気づかれ、見抜かれ、自身の悪しきパターンに乗っ取られて自らの人生を台無しにすることはなくなると考えています。

 

また、多くの蓄積された知識や方法も、自分や他人、さらには自然界の動植物の幸せのために生かされ、そのような愛の意識が主軸(主導権を持つ)の生き方が、個人的にはもちろん、全体的な幸福をもたらすということに、本当に気づいてゆく時代に入ったのではないかと思うのです。

 

そのためにも、自己認識(自分の心に気づくこと)がますます重要になってくると思います。これが、現在瞑想が広がってきている背景にあるものだと感じています。

 

そして、この自己認識には癒し、音楽、絵を描くこと、瞑想、そして健康的な生活が非常に役に立つと思います。役立つというのは、個人の幸福感はもちろん、仕事、子育て、またあらゆる人間関係を好転させてゆくためです。

 

主軸を感性や愛(一体、事実)の意識で生きることで、人生はうまくいくという感覚を徐々に大きくしていく人が増えることで、世界中で過去に生れ消えていった多くの賢者たちが強く伝えてきた「無我」や「自我の終焉」、「愛」などの真の意味、それがどんなものなのか、どんな生き方なのか、またなぜ私たちにとって良いのか、いかに良いのか、いかに必要なのかを体感的に理解できるようになってくるのではないかと感じています。