京都市の南部・鴨川の南にある方除の大社「城南宮」。
四神相応の地・平安京に遷都した際、国の安泰と都の守護を祈願して創建されたそうな・・・。
平安時代後期に鳥羽離宮が築かれ、熊野詣の出立にあたって7日ほど滞在し身を清め旅の無事を祈ったとか・・・。
境内入口の城南宮鳥居は、神明鳥居を基本にして、柱下に饅頭、棟に鳥木・笠木を重ね更に屋根を葺いている。
その鳥木に、日・月・星を表わす三光の神文と菊の御紋。
神苑(「春の山」)に、僅か150本ほどということが
樹下には絨毯を敷き詰めたよう紅梅の花びら・・・。
スギ苔の淡緑のうえに落花した城南椿、
そこから観る「しだれ梅」
城南宮の東に、白河・鳥羽・近衛各天皇の御陵。
とくに、近衛天皇陵は歴代天皇陵の中で唯一の多宝塔。
1868年正月3日夕刻、竹田街道を北上してきた桑名藩と幕府大目付・滝川具挙が鴨川にかかる小枝橋を渡ろうとするのを薩摩の新政府軍が城南宮の参道から発砲したことに始まったそうだ(「鳥羽・伏見の戦い」)。
この一線を皮切りに、約2年にわたる戊辰戦争が始まった・・・。
【現在の景色:鴨川に架かる小枝橋。対岸から攻めてくる幕府軍を此岸から迎え討った新政府軍】
矢川神社・・・甲賀八座、杣三社の一。
「甲賀の雨宮」とも呼ばれ、雨乞いに霊験あらたかなそうだ。

楼門。
間口3間、茅葺の入母屋造。奈良県天理市付近(布留)の住人が雨乞い祈願成就の返礼として15Cに寄進したもの。
文明14年(1483)完成。
当初は二層であったが、大風で屋根が吹き落とされ、初重に改変したとのこと。

参道の石造り太鼓橋。
寛文11年(1671)、架橋。
3列3行に並べた9本の円柱を貫でつないで橋脚とし、その上に重厚な梁と桁をわたし、板石を並べている。

境内地は、縄文時代から近世にかけての複合遺跡の矢川神社遺跡。
とくに、中世において甲賀郡中惣(※1)の一つがあったこと、即ち地域中惣の土豪たちが会合を開く寄合地であったことが知れている。
なお、この地域の郡中惣を構成していたのは、荘内三家の鵜飼・服部・内貴のほか五十三家の望月・杉谷・高山などであった。

境内を出るとすぐ西、杣川に架かる矢川橋の北詰に天保義民の碑。(※2)

この辺りにあった川港が、矢川津(甲南町森尻付近か)。
公の杣であった「甲賀杣」で産出した木材の搬出地。
矢川橋を渡って南に進む。
竹中城の傍を通って、新宮神社の参道脇に建つ善願寺(杣の六地蔵 第二番)へ。

寺の前の空地に屋外展示された埋もれ木。(※3)

新宮神社表門から新宮神社。
文明17年(1485)に建立された表門は、三間一戸八脚門。二層の楼門となるはずところ、何らかの事情で上層の工事が中断された?
一宮(天平4年(732)紀伊熊野大社)、二宮(常陸鹿島大社)、三宮(勝手大明神)の三神を祀る。
本来の参詣道は南の新宮城側にあったか?

新宮城・支城。
16C頃に築かれた甲賀郡中惣の土豪の城館。
甲賀特有の二城近接型で、尾根を空堀で断ち切り、方形に土塁を廻らせている。
前者は土塁囲みの主郭を中心として前面に曲輪を連ね枡形虎口を設け、
後者の支城は9mに及ぶ高土塁と深い堀切で囲まれている。
クルマを停めた甲賀市甲南庁舎に戻る途中に宮立形の伊勢街道の常夜燈。
伊勢神宮を信仰する「伊勢講」により文政4年(1821)に建立された伊勢街道を通る旅人の道標。

その近くに「一本柳」。以下、「村人のはなし」から・・・。
昔むかし、村の西はずれの旧伊賀街道と新伊賀街道の縄手辻に老木の柳が一本ありました。その木陰に長椅子が置いてあり、街道を往来する人々の休憩や弁当を食べたりする憩いの場となっていました。みんなは、この木に親しみを込めて「一本柳」と呼んでいました。この柳は、木の芯が殆んどごろ穴状態で、その穴は狸の棲家になっていました。
ある夜、村人が一杯機嫌で土産を手に、一本柳の近くまで帰って来ると、キレイな着物姿の娘さんに呼び止められ、ついついその気になって酒をよばれました。そのうちに村人は眠くなり、その場で寝入ってしまいました。暫くして目が覚め、気が付くとそこは道端の草むらで、娘さんの姿は何処にもありません。持っていたはずの土産も無くなっていました。村人はビックリ仰天し、家にとんで帰りました。
あとでよくよく考えると、あの辺りには家も無く、若い娘さんがいるはずもありません。さては狸に・・・??
その後も、この一本柳の付近では、何人もの人が「お風呂に入っているつもりが・・・水溜り」、「お金を貰ったつもりが・・・木の葉っぱ」などなど。いつしか村人の間では、一本柳の狸が人を騙すそうな?という噂で持ちきりになりました。
その一本柳も道の改修や田の圃場整備などでいつしか無くなってしまいました。村人に親しまれ、いくつもの逸話を残してくれた一本柳。懐かしい思いを込めて、ここに柳が植えられました。(了)
きょうの午後半日の散策はここまで。
この日の走行キロ:76km
歩数:14,392歩
(※1)甲賀郡中惣・・・甲賀(こうか)は六角氏の傘下に属しながらも「惣」と呼ばれる独自の地域連合体を形成し、郡に関わる全ての案件を多数決によって決定する「合議制」によって運営されていたという。
「惣」には三種類あり、それぞれ「郡中惣」、「地域連合惣」、「同名中惣」と呼ばれていたが、各氏族はこのいずれにも属し、それぞれの大小の事案に応じた適切な「惣」の決定により足並みを揃えて行動したそうな。
将軍足利義尚との戦い(1487年、鈎の陣)で活躍した地侍「甲賀五十三家」の中から代表として十家を選出し、その合議による決定に従って郡全体の行動を起こしたとされるのが「郡中惣」で、織田信長の近江侵攻という軍事的緊張を背景に概ね永禄年間(元亀の前、1558~70年)に形成された。家柄による身分差はなく、全ての家々は平等に扱われたという。
杣川の対岸に新治七城(竹中・倉治・服部・寺前・村雨・新宮・新宮支の各城)の城跡が残っている。
なお、新治の村名は、明治12年に合併した2村、新宮・倉治から一字ずつ採ったものとのこと。
(※2)天保義民の碑・・・ 江戸時代の三大飢饉の一つ「天保飢饉」が全国的に頻発し、幕府は財政再建のため、近江でも実際の長さより短い検地竿を用いて検地のやり直しを行なった。
この不正検地に対して農民たちは強訴に立ち上がった。
指導者となった庄屋の中に、ご当地の市原村・田島治兵衛、深川村・田中安右衛門、杉谷村・西浦九平衛らがいた。
天保13年(1842)10月14日未明、矢川寺(矢川神社)の鐘を合図に次々集まった数千人の農民は、検地奉行・市野茂三郎がいる三上村(現・野洲町)を目指して、野洲川周辺の農民を集めながら進み、10月16日に三上村本陣に殺到し、検地の中止を求めた。世に言う「天保一揆」、約4万人の規模に膨れ上がったともいわれる。
結果として「検地10万日の日延べ」が発せられた。
その後、指導者達は捕えられ処刑されたが、このように勝利を得た一揆は例がない。
明治2年(1869)罪人の汚名を解かれたものの、御上に抗する事件であったことから顕彰碑を建立することについて地元では賛否両論があったが、義民150年を機に天保義民メモリアルパークが作られた。
今でも毎年10月に供養が行われているそうな・・・。
(※3)埋もれ木・・・平成17年(2005)、新名神高速道の工事現場(甲南町新治)で加工痕のある杉の大木(径1.4mほど)が多数出土。
年輪年代測定により飛鳥時代(630~690頃)に伐採されたことが判明。

当地は、古代から中世の「杣(宮殿や寺院の造営、維持するための建築材を得るために設けられた山林)」が集中していたところ。
矢川津などで筏に組み、杣川・野洲川を利用して運ばれたそうだ。
↑是非、クリックお願いします。
※ クリックしていただきますと
歴史関係ブログがたくさん集まっているサイトに移ります。
※滋賀県以外の山城&古墳探訪記は、以下のブログをご覧ください。
初秋の青空のもと、古代から甲賀地域支配の拠点であり、物流の集積地として重要な役割を果たしていた杣川の矢川津とその周辺の遺跡などを訪ねた。


スタートは、JR草津線江南駅。
明治23年(1890)、関西鉄道の深川駅として開業した当時の駅舎は今だ健在。

往時は、信楽町の小野峠を越えるロープウェイを敷設して特産の陶器(信楽焼)をこの駅まで運んだそうだ。
駅前を東に進み踏切を渡って石段を登ると浄福寺。

天台宗開祖の伝教大師・最澄が、根本中堂を建てるための用材を求めて当地・杣谷に来たとき、紫雲たなびき金色に光る山があったので、その場所を霊地として開いたとのこと。

境内に天保一揆の指導者のひとり、深川の庄屋・田中安右衛門の碑。

杣の里・甲南の展望。
この山域の外れに片山城跡があるようなのだが・・・今後の課題。

裏山を抜けてさらに東に進むと甲南ふれあいの館。
甲南第三小学校の講堂を移築したという館内には、「里山のくらし」に関する民具やパネル写真が展示されていた。

とくに、杣について、前挽鋸に関する資料が充実している。
展示室の隅に埋もれ木、これについては後ほど概説。
甲賀杣・・・森林資源の豊富な甲賀では、古代より南都に建設用材を提供する杣が置かれた。とくに杣川筋では木にかかわる生業が発達し、大型製材鋸である前挽鋸の生産が行なわれ、明治・大正時代にその一大生産地として発展し、その販路は樺太から台湾、朝鮮まで及んだそうだ。北斎の「春道列樹」に前挽鋸で木を挽く様子が描かれている。

この日、ふれあい館の下方にある中央運動公園では、翌日のNHKラジオ体操の中継準備が進められていた。

駅まで戻って杣街道を西に進むと地蔵堂(杣の六地蔵)。
さらに西進して矢川神社の杜を目指す。
↑是非、クリックお願いします。
※ クリックしていただきますと
歴史関係ブログがたくさん集まっているサイトに移ります。
※滋賀県以外の山城&古墳探訪記は、以下のブログをご覧ください。
初秋の青空、ここちよい風が流れるなか、京都・鷹峯の3寺院(常照寺・源光庵・光悦寺)を散策したあと、人形作家・早瀬仁子(ハヤセ ヒロコ)さんの工房を訪ねました。

大津市大石にある真新しい『寿長生の郷』を訪ねた折に迎えてくれた人形たち。 その生みの親だということを店の方に教えていただいた。
一度、工房を訪ねたいと思っていたのですが、機会がなく・・・。
今回、やっとお会いすることが出来ました。

何度も通ったことのある千本今出川の交差点、お宅の近くに行ったのですが表札もわからず、目印の銭湯もなく・・・。
※ 銭湯・・・今春、焼失したとのことで、早瀬宅の前は空地になっていました。
諦めかけていた時に、外出先から帰宅されたのか、二人連れの女性に声をかけると~、なんと早瀬さんとお母さんでした。
本当に偶然。
訪問の趣旨を告げると、アポなしだったにもかかわらず、快くお二人が家の中に案内してくださいました。
玄関を入った左に応接間、そこの飾り棚に早瀬さんの作品・人形たちが並べられていました。
座敷に上がるよう勧められましたが、工房を拝見したかったので、お願いして奥に案内していただきました。
京都の町屋そのものです。

作業台の上に、焼き入れを待つ1体の人形。その横、轆轤の上に2体。
まぎれもなく叶匠寿庵で見た人形たちの姉妹。



土人形を作るきっかけ、毎日新聞の掲載、叶匠寿庵・先々代社長との出会いと「寿長生の郷」の人形たち、それ以後の創作活動など・・・5年ほど陶彫家に師事したあと土人形の創作を始めてから35年経ったこと、これまで5回ほど作品点を開催したこと、最近は陶芸教室で教えているのでそこの生徒さんと一緒に作品展を開いていることなど、いろいろお話をしてくださいました。
お体が少し不自由なところがあるにもかかわらず、人形たちから受ける印象そのままの優しい方でした。
「寿長生の郷」の人形たちの現況をお話しさせていただいたのですが、素焼きなので経年劣化を招き易く、屋外での展示に対応できる創作が課題であること、あわせて現在、体の具合がすぐれないことから直ぐには対応できないとのこと。

辞去する前、
「是非、ご覧いただきたい。」と手渡された冊子『土人形の詩 ~めぐりゆく季節とともに~』。
そこには、微笑む土人形をとおして早瀬さんの詞が綴られていました。

お宅を離れる際、
姿が見えなくなるまで見送ってくださいました。
突然の訪問にも関わらず快く接して下さったことに感謝・・・。
お母さんのいれて下さったお茶、さすが京都、美味しかったです(^J^)
↑是非、クリックお願いします。
※ クリックしていただきますと
歴史関係ブログがたくさん集まっているサイトに移ります。
※滋賀県以外の山城&古墳探訪記は、以下のブログをご覧ください。
安曇川の最下流、
琵琶湖に注ぐ河口の近くにある
滋賀県安曇川人工河川の見学会に参加した後、
今津の桂浜と木津に足を伸ばしてきました。

天気も良く琵琶湖の展望も最高 ~
・・・湖岸沿いの道を気持ち良く走って
「こどもの国」の北隣にある見学会会場に到着。
意外と道が空いており、
いつも休日なら1時間かかるところを40分ほどで到着。
開始時間まで案内図を参考に施設内を見て廻りました。
以下、担当者の説明の概要など。

延長653mの人工河川を4区画にスクリーンで分割。
各区画に2トンほど、施設内に計8トンほどの親鮎がおり、
これらから16億個ほど産卵される。
鮭のように腹を裂いて卵を取り出すのではなく、
①産卵のため梁に遡上してきた天然の鮎を
②河川水路に設けた産卵床へ運び、
③約2週間後、孵化した仔魚は水路を下って琵琶湖に下っていく。
ということで、極めて自然に近い形で育成しているそうです。

梁。
幅約2m、長さ約3m。
琵琶湖で育った鮎が産卵のため遡上して来るそうで、
特に渇水のときは河川の水が涸れることもあり、
この狭い空間に3トンも集まることがあったそうです。
なお、河川で育った鮎も産卵期に、
河口の近くまで下りて来るそうです
(「落ち鮎」)。

産卵床。
琵琶湖のから採取した5~25mm大の砂利を敷き詰めてあります。
琵琶湖の水深20mと5mの2ヶ所から毎秒0.8トンほど取水した冷温水を混合して適温(17~18℃)なるように職人的な感?で調整しているそうですが・・・台風などのときは湖水の上下動が激しく温度調整は難しいので自動化は困難とのことです。

砂利に産み付けられた1mm大ほどの卵。

産卵期の鮎は、
さびて全身が黒くなっています。

スクリーン。
産卵の親鮎が遡上して過密にならないように河川水路を遮断しています。
生まれた仔魚や産卵後の死んだ親鮎は、
隙間から下流へ流れて行きます。

数ミリほどの大きさの仔魚。
体は透きとおって分かり難いのですが、
色が表出している目を探し、
何とかそれと確認できました。
仔魚は、誕生後3日ほどはお腹に抱えた卵黄から栄養を供給されますが、
5日以内に琵琶湖に下りて餌のプランクトンを摂取しないと死んでしまうそうです。

死魚取上げ機と乾燥室。
産卵後斃死した魚をそのまま琵琶湖に流せないので、取り上げて乾燥後、粉末にするそうです。
粉末にした後・・・ミジンコなどの餌になるそうで、それが他の魚の餌に・・・。
鮎の一生は、わずか1年だそうです。
琵琶湖の鮎は、餌をプランクトン(ミジンコ類)に依っている(・・・餌を獲るのに体力を消耗する?)ので、河川で藻(珪藻類)を食べて育った鮎に比べて小さい。縄張も河川の鮎より広い?

琵琶湖への注ぎ口。

この後、琵琶湖岸を北上し、
彼岸花が群生する桂浜に向かったのですが・・・まだ早すぎたようです。

帰路、木津浜(こうつのはま)へ~
昔は、竹生島詣(西国三十三ヶ所・宝厳寺)の巡礼船が出たところ。
また、中には、ここから賽銭を投げて遥拝した人もあったという竹生島遥拝所跡。

湖岸に小さな石造りの鳥居が建つ
二つ石大明神へ立ち寄ったところで
今回の探訪はおしまい。
なお、二つ石は、琵琶湖の沖合い100mの湖底にあるそうなのですが、
渇水時でないと現われないので、沖の二つ石に代わって同じような大きさの石を湖岸に置いて祀っています。
渇水によって沖の石が姿を現さないように降雨を願う?
また、この二つ石は7~8世紀に施行された「条理制」の十八条三里の基点となった遺構でもあるとのことです。
きょうの走行キロ:103.2km
歩数:5,781歩
「日本ブログ村」に参加しています。
↑是非、クリックお願いします。
※ クリックしていただきますと
歴史関係ブログがたくさん集まっているサイトに移ります。
※滋賀県以外の山城&古墳探訪記は、以下のブログをご覧ください。

久し振りの青空・・・
琵琶湖から南流する瀬田川、
石山の南にある南郷洗堰、
大石にある銘菓・叶匠壽庵「長生の郷」、
そして
楽しく暮らしていけることを祈願しに
立木観音に
行ってきました。

瀬田唐橋のところで旧・東海道を横切り、
石山寺の前を瀬田川沿いに南下して
瀬田川洗堰を渡ったところにある
水のめぐみ館・アクア琵琶で
琵琶湖の治水・利水、
水環境について学習。
明治38年(1905)に造られた土木遺産・南郷洗堰。
昭和36年(1961)に
瀬田川洗堰が完成するまで活躍していた
イギリス積のレンガ造り堰。
雨体験室では、小学生(?)の姉弟が
世界最大の豪雨(600m/時)を体験中~。


館内には、
琵琶湖や淀川で起こった
洪水との闘いの歴史などの
パネルや洗堰の模型の展示。

お昼は、
営業しているか、いないのか分かり難い
南郷水産センター入口の左にある
オムライス屋「才・SAI」で
和風あんかけオムライス(大)。

再び瀬田川沿いを南下して鹿跳橋を渡り、忠臣蔵で知られている大石家の故地である大石の集落の南外れにある
叶 匠壽庵 寿長生の郷(かのうしょうじゅあん すないのさと)。
Pにクルマを停めると直ぐにいつもの親爺さん。

丁寧な案内もそこそこに、
足が向かうのは、総合案内所の古民家

・・・お茶をいただき一服、
御茶うけは「あも」、
勿論サービスなので無料。

6万3千坪という
広大であるにもかかわらず
良く手入れの行き届いた庭。

長屋門を入ったその先の三徳苑。

いつ来ても癒してくれる童たち。

京都市内に在住の人形作家
早瀬 仁子 さんの作品です。
帰路、立ち寄ったのが立木観音(立木山安養寺)。
寺伝によれば、
平安時代前期(815年・弘仁6年)、山に光を放つ霊木を見つけた弘法大師空海が瀬田川の急流で渡れずにいたところ、白い雄鹿が現れて、大師を背中に乗せて川を跳び越え、霊木の前まで導いてくれた。
雄鹿は、たちまち観世音菩薩の姿になり、虚空に消え去った。
以来、この地は「鹿跳(ししとび)」と呼ばれ、また、この時、大師は42歳の大厄の年にあたっていたため、観音さまが導いてくれたと歓喜し、自身のみならず、未来永劫の人々の厄難・厄病を祓おうと発願し、霊木を立木のままに五尺三寸の聖観世音菩薩を刻み、一宇の堂を建てて安置したとのことです。

瀬田川畔から直登、
800余壇の石段を登った先に本堂。
その奥の石段を登ると小さな鐘楼があり、鐘を一突きして厄を落とします。
遠くで雷が鳴り始め、微かに雨粒も・・・
なので、この日の探訪はここまで~。
この日の走行キロ:71.7km
総歩数 :8,278歩
「日本ブログ村」に参加しています。
↑是非、クリックお願いします。
※ クリックしていただきますと
歴史関係ブログがたくさん集まっているサイトに移ります。
※滋賀県以外の山城&古墳探訪記は、
以下のブログをご覧ください。




















