この前の夏、実父を見送りました。
なんとも急で、今でもたまに、あの夏は夢だったのか、現実だったのかわからなくなります。
すごく遠い前の出来事のようにも感じます。
まだ5ヶ月しか経っていないのに。
時々風邪をひいたり、足腰が痛いとかはあったけど
ずっと元気にしていたから
昨年の春休みも、子どもたちを連れて遊びに行ったら空港まで父が運転して迎えに来てくれました。その時のチケットも、父がとってくれたんでした。
2025年の7月7日七夕の日に、父は入院しました。令和7年だったから、7.7.7.!
その少し前からいまいち体調が悪く
風邪だと思って診療所に行って薬を飲んで休んでいましたが、一向に良くならない。
その日はやはり変だということで、母の運転する車で大きな病院へ行って検査をしたらそのまま入院になりました。
肺の病気でした。
その日は、ちょうど弟が仕事が休みで
付き添ってくれていたみたいです。
東京とひとり離れている私はその夜に連絡を受けて、え!あらぁ。というモヤモヤとした気持ちだったけど、こんなに早くに父が旅立つとも考えていませんでした。
その2日後に急遽お休みをいただいて北海道へ。
1人で北海道に行くのは上の子が産まれる前だから15年以上前だなぁなんて思いながら。
母が迎えに来てくれて、空港からそのまま病院に向かいました。
若く感じの良い父の主治医の先生
優しく見守ってくれた看護師さん
父と母と私で改めて病気の説明や今後の治療方針、延命希望をするかしないかの話を聞きました。
父は気丈でしたが、病院で治療を受けて少しほっとしたかのような優しい表情をしていました。
「延命はしない。これも寿命だからな。」
はっきりと、父の口から聞きました。
仕事上、沢山の最期を経験させていただいていたけれど、実の父がそういう状況になっていることが信じられない気持ちと、父を尊重したいという気持ちがありました。
その日は本当に何年ぶりか
父と母と3人で1時間くらい話しました。
孫たちの話が多かったかな。
今思うと和やかな時間でした。
その日家に帰り、私が母に提案したのは
まず父が帰って来た時にすぐに介護ができる状態に部屋を整えること。
サービスを受けるための介護申請を明日役場にしに行こう、ということでした。
昔からの友人ご夫婦に手伝ってもらい、リビングを介護ベッドが置けるように大きなソファとテーブルを撤去しました。
北海道の夏もだんだん暑くなっているから、リビングのエアコンも取り替えるのに手配しました。
訪問看護やリハビリを受けられるように
在宅酸素をしていてもトイレまで歩いていけるように
希望を持って、父がいつ帰ってきてもいいように、お休みをいただいた3日間で出来る限りのことをしました。
その後、東京に戻りいつも通りの生活をしながら
「介護休業とろう」と思い立ちました。
退院まで治療が上手くいけば1ヶ月。
8月いっぱいお休みをいただくために短期間で職場の上司、同僚、いつもうかがっている利用者さんやケアマネさんへの連絡し、了解をいただきながら、整えていきました。
介護休業までほんとに短期間だったので、本当に感謝しかありません。
8月再び北海道の父の元へ行った時、父は車椅子に乗って前よりも苦しそうにしていました。
先生の話を一緒に聞きました。
治療をして一時的に効果があり、歩いてリハビリをしたこともあったけど、また思わしくない。
次の段階へ移るということでした。
緩和の治療です。
説明を聞いたあと、再び個室に移り
そこから毎日、父からの伝言を聞いて、家に帰りメモの所在確認と必要なところへ連絡をするという日々でした。
東京を往復して孫たちも連れて来ました。
毎日会いに行きました。
そのほとんど全てが終わった次の日、
父は旅立ちました。
本当に立派でした。
泣き言ひとつ言わず
自分の体がしんどくてもいつも家族や親戚を気遣い
前向きに治療やリハビリを受けました。
すごいな、って思いました。
私は最後は父の隣で2日ほど寝ました。
最後の最後も手を握って声をかけながら見送ることができました。
一番遠くに住んでいたけど
一番近くで見送ることができました。
私の誕生日が過ぎた2時間後のことでした。
ほんとに、色々と計算されていて
父は考えていたのかな。
介護休業が終わる1週間前に亡くなり、忌引きが終わった次の日にもともとの復帰する日で、ぴったりでした。
忘備録として
夏のことを書きました。
今でも時系列で夏のことを思い出します。
また会いたいな。
でも父の肉体はなく。
ただ、どこかで繋がっているんだったということは時々思い出して。
穏やかに
丁寧に
日々を送りたいです。