そういう趣味ほしいなあ、と言われることがままある。そういう趣味というのは写真を撮ったり、海に潜ったり、本を読んだりといったことを指して言われるのだが、趣味と言われるとなんだかどうもしっくりこないところがある。


このような話になるときは大体、「趣味がないから一人になるとどうしたらいいか分からないのだ」という話とセットだ。確かに私は一人でいる時間の満たし方がうまい。だけど私からすると、人といることに幸せを感じられる方が人生としては満たされているのではないかと憧れたりする。自分がいわゆる多趣味であることで良かったことはあるけれど、趣味が多いことは偉くもすごくもなんともない。ただ私は人が人にする執着や依存のチャンネルをころころと変えているだけだと、そう思っている。


趣味が趣味と繋がったり、仕事にもなったりする職業だ。むしろ、繋げることこそがひとつの成功にも近いところがある。もちろんそれは嬉しいことであるが、そうなると今度は伝えたいことや魅力や、そういった言語化しなければいけないものが乗っかってくる。趣味がどんどん趣味から遠ざかっていくような気がする。アイドルやバンドがよく言われる「遠い存在になっちゃった」ような感覚に近いかもしれないが、自分の内側だけに存在した感情が誰かとのものになっていく感覚が息苦しくなり、秘めることを選ぶことも増えた。



ただ、そんな中でも大切な人や大切にしてくれる人とは分かち合いたいものがある。そのひとつが写真だ。ただなんとなく始めた趣味がいつの頃からか仕事にも繋がり、それでもこれは手放すことも秘めることもせずに続いている。それは多分、写真というものが撮る者の内側を反映するものと知っているからであり、言葉を持たずして語れるものだからなのだろう。



先日、数年ぶりに会った人がいた。本当に偶然だったけど、シチュエーションもタイミングも奇跡的で、いま会うべき人だったのだと当たり前のように信じられるほどその数分に価値があった。

久しぶりとか、すごいことだねとか、一通り話した後、彼女は私にこう言った。


「写真は?やってる?」


最後に会った時、私はこれを仕事にしたいのだと話していたらしい。当の私はすっかり忘れていたのだけれど、彼女はずっと覚えていてくれた。それが無性に嬉しかった。センサーとセンスをしっかりと持っているきっと彼女が覚えてくれていたというのなら、やっぱり間違いではないのだと思うからだ。


一方で、やはり時折撮りたいから撮るではなく、撮らなければいけないという動機でカメラを持つ時がある。日常の一瞬こそが尊いと始めたものなのに、持ち歩いても何も撮らずに帰ることも増えてしまっていた。


そんな時、写真を始めた頃にいつも一緒にいた人たちと会った。本当に久しぶりに会えたその一瞬に、私は自然とカメラを向けていた。

そうなのだ、この一瞬に私はいつも幸せを感じていたのだと、ファインダー越しの視線に気づきもしない3人を見つめる視線は、我ながら愛おしさに溢れていたと自覚している。


趣味があるから満たされているというわけではなくて、やはり人間みな、「好きななにか」に生かされているのかもしれない。


きっとこれからもその好きを秘めたり見せびらかしたりしながら生きていく。まだ出会っていない好きもあるのだろう。


その日々を楽しみにしながら、

誰かの好きが守られる世界を願っている。