髪を染めた。自分で染めた。

舞台と舞台、そして合間の撮影を考えると、1週間で落ちると謳われているカラートリートメントで染めるほかなかった。乾いた髪にベタベタと塗りつけながら、心の中で美容師さんに謝り、数回に渡り黒髪を生み出した。このスタイルもすっかりと見慣れてしまった。


生まれ持った色は黒よりも茶に近く、小学生の頃ニコ・ロビンへの憧れから「黒髪にしたい」と言うと「あきはたぶん重く見えるからやめた方がいいよ」と言われたことがある。いま思えば母の色彩感覚は繊細で、やれイエベだブルベだと言われる前から季節で語っていた。確かに、黒は重量感を持って私に寄り添って見える。


思い出したことがある。

実は高校生の頃にも髪を染めてみたことがあった。最近使ったのと同じ、黒いカラートリートメント。痛んだ髪ほど染まるという仕組みのそれは、全くと言っていいほど色は入らず、ただそれでも暗くなったのは分かった。たったそれだけのことが大人になれたようで嬉しかった。すっかり忘れていたけれど、思い出した。すっかり忘れたことたちの延長にいまがあるのだ。



正確にいうと、すっかり忘れたこととどうしても忘れられないことの延長にいまがある。24歳になった日のことはどうしたって忘れることはない。あの日から黒は強さや重さだけでなく、寂しくて冷たくてあたたかい、そんな色になった。忘れられないことは日々のわずかな隙間から顔を出し、それが少し痛い。でもその痛みを感じられることに少し安堵する。その繰り返しだ。


最後に交わした言葉はおろか、最後に会った日すらすっかり忘れてしまった。些細な日常は空気に溶け込み、今では知ることすら出来ない。こんな人であれだとか、あんな風に生きるのだとか、そんな言葉のひとつでもくれていたならきっと忘れなかったのに、思い出すのは元気かどうかを問う声とやさしい眼差し。あたたかな手と、出迎えてくれるその大きな身体。ただそれだけ。



この世のどこにも存在がないのだと、文字通り痛感したところで、時を大事にするのは難しい。日常は日常の温度をしているからこそあんなにも価値がある。10年ほど前にも同じようなことを思っていたのに、いつかの日を分かっていたのに、まったく同じ後悔をしている。

声は思い出せても、もらった言葉のひとつも思い出せない。この先、声すらも忘れてしまうのだろうか。その痛みだけを忘れられないでいる。忘れたくないと思っている。



優しくてあたたかい、そんな色が似合う人だった。だけど花はあまり似合わない。風に葉を揺らしては音を立てるも動じない、大木のような人だった。どちらかというとシャイなのに、あたたかな手で頭を撫でてくれた。その温度を失くしたその人を花が囲む。見慣れた人たちが見たことのない顔をしている。似合わないねと笑うぼやけた視界の向こうで、黒い服を着たちいさな家族がこう言った。



「きれいだね」

無邪気にそう言った。

あの響きが彼の愛の証だったように思った。



どんな時代を生きようが、人は死への片道切符だけを持って生まれる。終着駅はみんな同じなのに、その先を知っている人はこの世にはいない。だから土産話を持ち込めるのかも、私は知らない。



出来るのはただ、想うことだけ。

これから先、きっとすっかり忘れては面影を見つけ、何度も思い出し、忘れ、思い出し、別れ、また思い出しては忘れゆく。多分すべてを大切にすることはきっと出来ない。当たり前を当たり前に過ごしていく。


それでも、愛されていたことだけは忘れない。

それだけは、どんな未来にも変えようのない事実なのだから。


黒を纏った私は、

あの日のきれいな花を瞼に浮かべ、

ひとつ息を吸った。