ようやく、散歩するのが心地よい季節になった。運動会の朝や放課後の曲がり角で感じていた風を浴びながら歩く道はいつの間にかビルに囲まれ、そんな中でふと届く湿った草木のにおいにこそ記憶が刻まれていることを知った。


人間という生き物について考える時間が多くなった。生活という連続した時間の無意識の中で何を考え、どう行動し、どんな顔をしながら生きているのか。どういう環境が人をどう育て、どんな連鎖を生むのか。そんな当たり前に改めて向き合うということは至ってシンプルで、それでいて本当に難しい。それでも頭を必死に回し続けている。



5月に入り、本格的に舞台稽古が始まった。

月末に待つのは「体育教師たちの憂鬱」という舞台だ。その中で私は櫛田という女子高生を演じるのだが、正直なところ、いまだ彼女のことを理解しきれていないのだと痛感する毎日だ。

今回の脚本演出である金さんこと金沢知樹さんはいつも「誰かになろうとするな。自分でいけ。」と言う。つまり、自分だったらどうするか、どう感情が動き、どういう行動に出るのか。そういう当たり前をすればいいだけのことだというのだ。これが本当に簡単で、本当に難しい。誰かのことを自分のことのように考えるのは簡単でも、自分のこととして考えるというのは、私はとても難しい。


そんな日々の帰り道は、新しいクラスに馴染めたようでどこか無理をしていた小学生の頃に似ている。自分に欠けているさまざまな性質を思い知らせるように、虚しい穴に風が通り抜ける。


だけど、わかりたいと思う。

私の人生から生まれる彼女の人生を。

夜の公園のベンチに寝転び、問いかける。

あなたはどんな気持ちで、どんな毎日を送ってきたのかと。心地良くも冷たくもあるこの風は、あなたにとってはどんな風なのだろう。答えは私の中にあって、だけどそれはきっと私も知らない私なのだ。


そんな自分と出会うことは、とても恐ろしいことだと思う。いつもの自分なら何も難しいことはなく、きっとそれで今までだってやってこれたのだけれど、今度は違う。鍵を開けたり重い蓋を取ったり瘡蓋を剥がしたりしてようやく出会うことができるのだから。だけど、それは嘘をついたり作ったり、無理をするということじゃない。だって私は、彼女が私に似ていることを知っている。私が取らない選択を取ってきた、私が歩くかもしれなかった人生なのだと分かっている。それは、紛れもなく私なのだ。



私は隠し事の多い人間だ。

嘘がつけないくせに、すべて見せることに強い躊躇いがある。姑息に隠そうと、上手くつけもしない嘘をつく。そうやって生きてきたことを最近知った。だから自分にすら見えないままなのだろう。


だけど、彼女が嘘をつかずに生きるためには、私がいま向き合うしかないのだ。草木の中に閉じ込めた記憶から、ひとつひとつ拾い集めるしかないのだ。それを集めた私を、私も楽しみにしている。


あっという間に時は過ぎる。

すこし前には凍えたベンチも、今では青々とした桜の木の下で程よく身体を冷やしてくれる。

夏はすぐそこだ。

その入り口で、彼女はきっと待っている。


迎えに行けるのは私だけなのだと、

今日も風を逃さず、当たり前を歩いていく。