数年前、主にネットで大きな話題となっていた漫画がある。色々な考察や伏線、また、そこから出る現実とのリンクや感想、そういった議論が盛んに行われる漫画で、いわゆるバズ、とはまた違うムーブメントが生まれ、例に漏れず私もその渦の中にいた。

その中で「してあげられないことばかりだ」という言葉が出てくる。

ここのところの私は、それを痛感している。




明日、福岡市民会館でコンサートが開催される。14時からの公演は私の世代から下の世代がフィーチャーされる公演だ。フィーチャーとはどういうことなのかとよく聞かれるが、私たちも出る、ということ以外の説明が難しい。とにかく今回の主役は彼女たちである、それだけしか今は言えない。だけども、いまの彼女たちを見ないという選択はきっと長く後悔するだろう、と私は思っている。そのくらい、大きなタイミングを迎えているように思う。


一方で当の本人たちは、今までにない役割や、演出、その中での見せ方、自分たちが主体となることの意義や向き合い方、プレッシャー、さまざまのことに悩み、葛藤し、涙を流す姿も多く見かけた。求められることも多く、多分今のこの瞬間もまだ、不安を抱きながら明日を迎える準備をしているのだろう。


健気な姿についつい口を出してしまいそうになる。いや、正直何度か出してしまったように思う。その度にこれはよくないと反省し、求められない限りは出来るだけ見守ることに徹してきたつもりだ。


そんな中で電話が鳴る。

普段私は人と連絡を取る方でなく、日常的な会話も続けられないため、後輩から連絡事項以外の連絡が来ることは滅多にないのだけれど、夜な夜なそっと、不安をこぼすように連絡がきた。思い悩む彼女たちには悪いけれど、なんだかそれがあまりにも愛おしく、抱きしめたくなった。

廊下を歩くと名前を呼ばれ、この曲のここが、という話になる。私は彼女たちのいいところがすぐにだって言えるのに、本人はまったく気づいていないのだ。どう言えば信じてもらえるのだろうかと、その不安や悩みに何も解決策をあげられない自分がなんとも情けなくなる。


自分は幾度もあらゆる人や言葉に救われ続けてきたというのに、そしてそれをいつかは誰かに、そう思い続けてきたはずなのに、いざ順番が来るとあまりにありきたりで、的外れな気がするようなことしか言えないで、自分はなにをしてきたのだろうかと、その度に愕然とする。先回りしてなんでも教えてあげたくなっても、自分で体感しなければ学べないことも世の中には多く、また私と彼女たちは過ごした時間や見てきた角度、中身も当たり前に違うわけで、分かったようなことは何も言えない。そうでなくても、今の私に言えることでも、あの頃の私に言っても通じないことなんて、山のようにあるのだから。


それにしても本当に、

してあげられないことばかりだ。


だからこそ彼女たちの今には本人が思っている以上の価値がある。もしかするとかつて見守っていてくれていたあの人たちも同じように思ってくれていたのだろうか。振り返ると懐かしく眩しい思い出は、遡れば不安や苦しさでいっぱいだった。覆う闇は意外と布切れのようなもので、力いっぱいもがけば気づかないうちに日の光に包まれている。そういうものだ。


私ができることがあるとすれば、ただただ信じること。そしてもしもそこから立ち上がれないと言った時には手を取れる、そんなできる限り近い場所で見守ることだけ。



冒頭のセリフにはこう続く


「何にもできないけれど それでも」


その、それでも、が今のわたしだ。

してあげる、ということ自体あまりに傲慢で、押し付けがましく、余計なことなのかもしれない。だけど、それでも、それでも出来ることなら力になりたい。エゴだとしても、そうでありたいと思うのは、やはりかつてそのような愛を受けて今のわたしになったという自覚があるからなのだ。



明日を迎える君たちへ。


あなたたちは最高です。

最高の明日を、あなたたちは作れます。

そのことをどうか、あなたたち自身が信じていてね。


そして私も。

熱は伝い、輝きは乱反射する。

そんな明日を心待ちにしています。