春だ。

空と風の色が変わった。確かにすぐそこに春が来ている。


3月も終わるのだと思えばそれもそうなのだけれど、寒さの厳しかったこの冬は長く、また、ひとつなぎの時間を過ごしているとは思えないほどの気温差に身体も情緒も振り回され、春が来るということをどこかすっかり忘れていた。


公園の前を通ると、昼過ぎから子どもたちの賑やかな声が聞こえ、ベンチには脱ぎ捨てられた上着が散乱している。もう少し暖かくなったらあてもなく散歩しよう、と決めながら、黄味の増したように思う太陽に目を細めた。大きく息を吸うと鬱蒼としたものが消え去るように心が明るくなり、先人たちがさまざまな事象を「春が来た」と表したことに不意に感動する。時代の中で表し方に違いはあれど、自然を前に心が動く様は変わらないという事実はたまらなくロマンだ。



季節と出逢いや別れがリンクしなくなって久しい。年度という概念から離れて早くも6年が経ち、6年という時間の感じ方も変わった。それでも最近は、かわいいあの子たちのおかげで、四季の中にその概念が少し蘇ってきている。通知表の話や、卒業式での出来事、自分にとっても当たり前だった日常が今は尊く、だけどそれをいくら説いても当人たちにとっては当たり前だということも分かっている。いつかは気づくその時に、この春があたたかな記憶で埋まればいいなと思いながら、限られたこの時間を少し離れて見つめている。



一方で冬の面影を持った夜の冷え込みは心も引きずり、夜な夜な中学時代からの友人と話し込むことが増えた。当時からずっと、大人になることを怯えながら、一緒に大人になってきた友人だ。何の因果か二人揃って、若さの近くで仕事をしているのだが、だめなところは未だてんでだめで、いわゆるちゃんとした大人にはなれていないし、これからもなれる予定はない。

だけど、やわらかくまっさらでなんにでもなれるかたちに触れることを心底恐れながら、それ以上に、何者にも、何事にも傷つけられることがないようにと心から願っている。その度に何もできない自分に落胆し、それでも伸ばせる手は伸ばしていたくて、それはエゴでしかないけれど、それでもそれが本心で、そんな話を夜な夜な繰り返し、もがきながら、大人を生きている。



春だ。

こころが少し大きくなり、風が吹き抜ける季節は、新たな希望とともになにを運んでくるのだろうか。私にとってはもう四季の一つになってしまったけれど、特別な季節になる誰かにとって、出来るだけあたたかな季節になることを願っている。


なんて言っても春というのは、暁こそまだ遠けれど、夜明けが美しいことは、とうの昔からみんな知っているのだから。