ざあざあという音がゆっくりとフェードインする一日の始まり。寝返りを打つと灰色の窓。外界を遮断するような音は少しずつ頭を覚醒させ、同時に鈍痛と押し潰されるような空気の重さを感じる。雨が降っている。


晴れた日には滅多につけない電気をつけ、世の中の憂鬱な顔を想像する。

天気が悪い。どんよりと煩わしく、外に出るのは億劫。じめじめとした湿気にイラつき、早く止むことを願いながらいつ晴れるのかを確認している。雨を褒めたかと思えば、虹が出るとか地面が固まるとか、その後のことばかり。

私はというと、重力を一身に浴びているような感覚で天井を見つめる。ただただ、見つめる。




小説 「ダリの繭」に出てくるフロートカプセルのことを考えることがある。体温と同じ水温の専用の液体を入れたタンクに浮かぶことで、胎内のように無重力感覚になりリラックス効果が得られるという。本筋の事件やトリックを他所に、身体の輪郭をなくしていくようなその描写がずっと頭に残っていた。

土砂降りの中外に出る。傘を叩く破裂音にも近い音と、その外ですべてをかき消すノイズ。肺に入りやすくなった冷えた空気。守りきれない傘の下で自分という人間のかたちがぐにゃぐにゃになっていく。

今までずっと雨が好きだと言ってきたけれど、その実少し違う。頭も痛いし、具合は悪い。でも、そんなこともすべて含めて、雨の中になら溶け込めるような気がするのだ。雨は私の繭。きっと私は遠い昔、雨の星で生まれたのだ。




小学生の頃は雨の中帰ることが多かった。気のせいなのかもしれないが、校門に並ぶ迎えの車たちを横目に黙々と歩いていた日は少なくなかったように思う。

友達がいないわけではないが、早々に社会的な生活をリタイヤしかけていた私は一人で帰ることが多かった。今でも多分30分くらいかかる通学路だが、当時の私は草や花、石や壁、空の色や雲や家の形、いろんなものに興味が惹かれ、気づけば2時間近くが経っていた。もちろん放課後遊ぶこともあったけれど、やっぱり一人でのんびりと帰る道が好きで、中でも雨の日の側溝を眺めたり、今考えると危ないが、それを長靴で堰き止めてみたりするのが好きだった。それは楽しいというのともまた違う、もっと静かなもの。それに雨の音は思考の中にある声をかき消してくれる。公園でドッヂボールをする同級生はいないし、近所の人は家か車で誰も歩いていない。一人でいることを咎められることも心配されることもなく、ただ存在だけをさせてくれる。




人の当たり前が当たり前じゃないことなんていうのは、私たちの世代ではもう当たり前のこと。それでもやっぱり、人が当たり前にできることや好きなもの、そういったものが私には当たり前じゃない。大人になれば違うのだと思っていたけれど、歳を重ねれば重ねるほどこの星での暮らしは難しいことだらけだ。雨の星の人間は9.81 m/s2ぽっちでは浮いてしまう。それでも大人になるまでに少しずつ生き方を学び、出逢い、楽しみを知り、陽の光のあたたかさを知った。知識や学びを錘に地面に足を縫いつけ笑みを交わす。そんな暮らしにも嘘はない。


ただ、太陽の下で生きるには相応のエネルギーが必要で、力を入れて生活を営む中で、時折錘が外れると途端にどんどん浮いていく。鳩尾のあたりに風船があって、どんどん膨らむその中にはさみしさだ。それはきっとこの星では悲しい響きに変換されるのだろう。何かで埋めたり、癒したり、そんなことが必要だと思われるのだろうか。私はこのさみしさと一緒に生まれ、生きてきた。呼吸するようにさみしさを膨らませてきた。だから、埋めることの方が私にはさみしい。


雨はさみしさと同じ温度をしている。

風船の中はやっと向かう先を見つけ、私は大きく息をした。


数日前、友人が「私たち同じ部屋の人だから。持ってる鍵が違うだけで同じ部屋に入れられるよ。」と言った。数年前にできて、まだ数回しか会っていない、だけど確信めいた出逢いの友人。ああ、この人はきっと同じ星から来た。突然の雨を一本の傘で避けながらそう思った。この星ではそんな出逢いが時々訪れる。そうして、「もう少しだけ、」と思い直すのだ。



雨は止み、まだ少し温度を残した風が吹く。

うららかな日差しは気持ちいい。この国の美しい季節がやってくる。少しだけ気分も晴れやかになる。


それでもいつか、同じ星の誰かが太陽の下で蹲っていたなら、同じ部屋に浮かびながら一緒に雨を待ちたいと思っている。