ここは随分と前に時を止めたようで、実は1ヶ月と経っていない。それをまだと呼ぶか、もうと呼ぶかは人によりけりだと思うのだけれど、私としては、意外と久しぶりじゃなかったな、というのが正直な感想だったりする。心が忙しなかったせいか時の密度が高く、相対してここは、荒地になっているとすら思っていたからだ。

とはいえ、時も空気も止まったまま。
このご時世換気が大事だ。
そんな気持ちで、少し身軽になった言葉を認めてみようと思う。

現在午前3時。正確に言えば11分。
あれだけ早寝を信念としていたはずの私が、明け方に眠るようになってしばらく経った。これはストレスでもなんでもなく、単に風呂をめんどくさがっているだけでもあるが、気付かぬうちに蝕む寂しさが、1日を引き伸ばそうと悪あがきしているように思う。

かと思えば20時には床に就き、日付を越える前意識を失うかの如くスマホを手放す日も増えた。その日の夜を埋める予定もないからだ。次の日の仕事もないからだ。いまだにしぶとく、更に強く蔓延るウイルスが、日常が少しずつ戻りつつあるように見えるいま、過去一番のご近所さんになったからだ。

涙も戸惑い、期待をすれば落胆、ぶつけどころのない怒りや悲しみを抱える一方で、悔しさを抱く権利すらなく、かといって負の感情に支配されたまま日常を溶かすように生きることは御免で、台所を立つ日々を送っている。

人と会うことがなくなってまだ数日。だというのにスケジュールの消えた数日は、何ヶ月にも思う。そんな時思い出すのは、所謂"自粛"をしていた日々のこと。ここに記した無色でもカラフルでもあった日々のこと。時計が過ぎることと、時間が過ぎることは別の意味を持つと、あの時知った気がする。

そう言えば小学4年生の頃、担任の先生(チンチラを飼っている)から「時間に使われるな。時間を使う人間になれ。」と口酸っぱく言われていた。あの時は意味がわからなかったけれど、今は割と実行できているように思う。と、風呂を怠けて気づけば時計は3時を指している私が言うのは、あまりにも説得力に欠けるのだが。

大して働いてもいないくせに、この機会に、なんて言葉が口をついて出てきそうになることがある。何もかもをストップしてみようかと思ってしまうことがある。そしてそれはとても簡単なことだったりする。右の親指一つで私たちをつなぐ数字の羅列は、1から0になる。誰に怒られるわけでもなく、迷惑をかけることもなく、出来てしまうのだとふと思うことがある。

だけどそれをしないのは、それを選ばないのは、この画面の中だけの世界でも、私が在ることで誰かのHPが増えることを自負しているからだ。私だって誰かの1と交信して、ここまで生きながらえている。なんてロマンチックでSFチックなことを思うのだ。

 気づけば師は走り去り、最後に睦ぶことも難しいまま1ヶ月は間も無く終わるけれど、ふと外に出た時の風がマスク越しにでも心地よく、まだまだ寒いとは言えどほんの少しだけ春の予感を運んだ。

少しでも早く芽吹くといい。
そして何より寂しけれど、すこしでも早い桃色の季節の訪れを遥か空に願い、今日も"1"の生活を。



いつか晴れる空よりも、今ある光の眩しさを焼き付けていたいと思う。