えらく昔の写真が出て来た。

どうかすると5年前くらいだろうか。
このケースが可愛くて可愛くて、手放したくなくてずっと使っていたことを覚えている。
あと、この日のツインテールが上手くいったなとお気に入りだったことも。


昔使っていた画像加工アプリを久しぶり開いたら保存されていたこの写真。

これは、ダンスの発表会のものだ。

わたしが通っていたダンス教室は、小さな公民館で毎週金曜日に開かれている。姉を真似て2歳で入ったわたしなのだが、周りがメキメキ上手くなるなか、楽しいだけで満足していたので全然うまくはならなかった。けれど、それにあまり気づいてもいなかったし、気付いても、気にしていなかった。ただただ楽しいだけでよかったから。


豊永阿紀という人間が、初めてどこかに所属したのがここだった。そして、最後までいたのも。
自分の意思なのかそうじゃないのかすら覚えていないし、最初の頃なんて全く記憶がない。だけれど、考える時間すらなく、今までの人生表現をやめなかったのは、ここで育ったからだと言い切れる。
いま考えると、あまりないシステムな気がするが、下は2歳から上はお母さん世代までいるようなところ。先生は一人。殆どが同じ保育園の子で、クラスで別れた後はそれぞれがご飯を食べて再集合するのだ。


まだまだ、不思議なところはたくさんあって、どれだけ他のチームが出ていても、自分たちの番になったら、出ていない見ているメンバーが、指笛吹いたり、フ〜〜!!!と煽ったり、最高ー!!!!と言ったりする。いま考えるとさながらボディービル大会だ。だけれども、だからこそ、どのチームよりも楽しそうだった。し、実際とっても楽しかった。ステージに立つ楽しさを最初に感じたのは、もしかしたらその声を浴びたときなのかもしれない。


HKTに入るまでの14年間、時にサボったり休んだりしながらも通い続けていた実家のような場所。足を踏まれて喧嘩したり、インフルエンザで祭りに出られなくて泣いたり、大人クラスの間待ってる子供達で騒いで何度も怒られたり、ストレッチ中に寝てしまったり、友達に見に来てもらったりした思い出のたくさん詰まった場所。そんな場所を2回、長く休んだことがある。

1回目は先生が産休だった時。たしか、小学2年生くらいだっただろうか。その頃、金曜日は何をしていたのだろうか。全く記憶にない。ないけれど、いつ出来るのかなぁと思っていたことは覚えている。いや、あ、そうだ。姉はもうその頃大人のクラスだったのだけれど、そのクラスは、当時おねえさんと呼んでいた別教室のおねえさんが教えに来ていた気がする。今思うと、社会人クラスのようなものだと思うのだけれど、とにかく、私にとっては、2年に一度の発表会でしか会わないような雲の上の存在。かっこよくて、可愛くて、綺麗で、こんな風に踊りたいと誰もが思うような、そんなおねえさんが教える大人クラス。そこに見学に行った。ような気がする。夢かもしれないけど。

クラスは別に、年齢で決まっているわけでもなかったし、子供も大人も一緒に踊るときもあったから、さして不思議なことではないのだけれど、このタイミングでこどもクラスからうつった少し上の歳の子たちもいた。大人に混ざって踊るその子たちがすっごく羨ましかったのを思い出した。



そして先生が復帰して、こどもクラスが再開してからは、少しずつ人が戻って来た。子どもの習い事だから、戻ってこない子ももちろんいた。わたしはなぜか覚えてないけれど、戻るのは少し遅かったような気もする。と、当時の体感で思っているだけで、実際はそう長くないのかもしれない。記憶はいつも曖昧だから。


でもとにかく、それが1回目のお休み。


そして、2回目は、わたしがオーディション番組に出ていた時。いま考えると全然通ってよかったのだけれど、なぜかダメなんだと思っていたわたしは先生に休みますと言いに行った。すごく喜んでくれたのを覚えている。本当に優しくて、本当にかっこいい先生なのだ。

その番組でわたしは、今までの10年以上はなんだったんだ?というダンスを披露する。ここで誤解してほしくないのだが、下手なのはどう考えても私のせいである。今でも見返すのが恥ずかしくて見れない。

この際正直に言おう。
あの番組で振りを考えてくる課題は全て、あの場限りのアドリブだったと。「もう一回踊って」と言われた時は、本当に心臓が凍りついた。

だけれども、乗り切れたのは偶然じゃない。と思っている。

今までの10年以上、ずっと先生が言っていたのは、ダンスの技術もそうだけれど、それ以上に表情だった。

歯を見せなさい。じゃないと後ろの席の人は笑っているか分からないから。笑うのが苦手な人は歌いなさい。そうすると自然に歯が出るから。あと、失敗はステージでは笑ってごまかすことも教えてくれた。お客様には見せるものがすべてだから。先生はいつも、見てもらうためのダンスを教えてくれていた。そういう風に教えてもらっていたからこそ、乗り切れたのだと思う。し、これは今でも私の根底にずっとある。


気づけば自分は古株で、こどもクラスの一番前(これはもう年齢的に)を経て、いつからか大人クラス。自由すぎる場所だから飛び入り参加でこどもクラスにも入ったりして。
番組が終わってからも、正直全く上達はしていないものの、楽しさが増していた。

この写真はそう、復帰したそのすぐあとの衣装。発表会ギリギリで戻ったのだけれど、昔やった曲と最後の曲に先生が入れてくれたのだ。

そこからHKTに入るまでは本当に少ししかなかったけれど、最後まで本当に楽しかった。

つくづく、人生の選択に恵まれていると感じる。小さなことについては、運がないなと感じることが多いのだけれど、人生単位で見ると私はすごくすごく運がいい人間だ。

いまでも、時間が合えば顔を出しに行く。
私がいた頃はまだ園児だった子たちが気づけばランドセルから制服になっていたり、お腹の中にいた子がゴリゴリ踊っていたりする。
おはようございますとドアを開けると、あきちゃんーーー!!!と駆け寄って来てくれるこどもたちが大好きで、そして、あきー!元気しとったー?と、何年経っても温かく迎え入れてくれる先生が大好きだ。

いまは、これでお金を取るのだからと上手くなるように頑張りたいと思うけれども、根底にあるのはやっぱり私は楽しさで、それを失いたくないなと思った。まだまだだけれど、少し前に行った時、先生が褒めてくれたのが嬉しくて嬉しくて。また頑張ろうと思ったのだ。

いまはそこもおやすみだけれど、いつかまたずっと一緒に続けて来た幼馴染みと二人であのドアを開けたいと思う。