私の部屋には物が溢れかえっている。



賛否両論あるだろうが(むしろ否寄りだろうが)、私としてはそれでいいのだ。自分でもわからないスイッチが入った時には、引いてしまうほど思い切りがいいことを知っているので、今はそのままにしている。一般的ではないことは心得ているので、人を呼ぶ時にはしまう場所を変えたりするのだけれど、しばらくはそれもなさそうだから、どんどんと自分が過ごしやすい部屋にカスタマイズされていっている。


そんな、物が溢れた部屋でも、ないものが結構ある。例えば今日は、緑のマニキュアを持ってないと気付いた。


緑は好きだ。なんとなく、昔のにおいがする。懐かしさとロマンの色。

思い浮かべるのは、大体の人間が植物ではないだろうか。私も例に漏れず、浮かべるのは自然の色である。だが、一言に緑といえども無限に色がある。人によって緑は違うのだ。私が浮かべるのは、森の色。深い深い、緑色。だが、3つじゃ足りなくなったポリッシュの詰まった袋たちのそのどれにもその緑はなくて、だけれどその時の私はどうしても緑が塗りたくなってしまっていた。そこで思い出したのは、「あおくんときいろちゃん」だった。



レオ・レオニの絵本作家としてのデビュー作。その名の通り、あおくんときいろちゃんの物語。2人はいちばんの仲良し。

ある日、あおくんは留守番を頼まれるのだが、どうしてもきいろちゃんに会いたくなってしまい、街を探し回る。そして、やっと会えて、嬉しくて抱き合うと、みどりになってしまった。それぞれの家に帰ると、この子、うちの子じゃないよ、と言われてしまう。今考えると、子供が読むには少しスパイスの効いた話だ。2人はそれにショックを受け、あおときいろの涙を流す。すると、あおの涙はあおくんに、きいろの涙はきいろちゃんになり、両親にやっと気付いてもらう。そんな話だ。

だけれど、物語はここで終わらない。私がレオ・レオニのことが好きなのは、ここからがあるからだ。


無事に戻ったあおくんときいろちゃんは、あおくんのおうちへ行くのだけれど、あおくんの両親は大喜びであおくんを抱き上げ、そして次にきいろちゃんを抱き上げる。そこでやっと合点する。あおときいろが抱き合うとみどりになることに。そして、それをワクワクしながらきいろちゃんのおうちに話に行く。両親も嬉しくて、みんなみどりになる。そんな終わりだ。

ほとんど変わりのない絵だけれど、シンプルなストーリーだけれど、世界でいちばんやさしい本だと私は思う。




また、話が脱線してしまった。悪い癖だ。思考も常にとっ散らかっている。私的には成立しているのだが、思考はアウトプットが付き物だからそうも言ってられない。


そうそう、あおくんときいろちゃん。つまり、青と黄色が混ざれば緑になるのだ。深い緑は、どちらかの色が深いと出来上がる。紺色は、地元のサッカークラブのカラーなので何本も持っていたし、黄色も持っていた。厚紙の上にポリッシュを出し、爪楊枝で混ぜる。すると、たったいまの脳味噌から引っ張り出してきたようなそのままの「緑」が出来た。筆で、丁寧に、いや、嘘をついた、割と適当に、色を乗せる。

当たり前や、普通、些細なことが引っかかるので、面倒くさいと自覚しているし言われるが(言われること自体が引っかかるのだからどうしようもなく面倒くさい)、その割に機嫌は案外簡単に治る。たったこれだけ、爪に色があるだけでも、HPが回復するのだ。自分で自分の機嫌をとるというのは、割と重要なライフハックだと私は思っている。

性格なのか、必要とするもの自体が少ないのか、ないことに嘆くことがほとんどない。そして、案外あるもので作り出せる物が多い。この期間で色んな物が作れることを知った。これは、今がなければ気づくのは当分先だったのだろうな。

元通りの日常を望むけれど、なかなかそうはいかないのではないかと、そろそろ気づきはじめている。であれば、元通り以上であればいい話だ。一言にそうはいっても難しいし、今で精一杯の人も大勢いるだろうけれど、その精一杯が生み出すものがあるはずだと思う。それは、見えるものだけでなく、価値観であったり、人への接し方であったり、自分との付き合い方であったり。そんなふうに考えられるのは、考えられるだけの時間があるからだとも思うけれども。


とにかく、この部屋にはまだまだ新しい可能性が沢山あるらしい。


失う時間以上に、得られるものへの可能性を追い続けたいと思う。そんな夜であった。