近頃の自分は、さながら浦島太郎のようだ。

所用のため、数日ぶりに玄関のドアを開けると、その日差しの強さに「あっつ、」と思わず声を出す。太陽だけが理由のそれではなく、天気だけでは済まされないじゅわっとした暑さに、過ぎた冬よりも次の夏の方が近いのだと悟る。カーディガンを羽織った数分前の自分を恨むが、今から戻る面倒臭さの方が勝った。完全に衣替えの時期を逃している。と、思ったが、街を歩く人間もまた冬物のコートやダウン、天気予報の気温とちぐはぐな格好をしていた。これが学生の頃であれば、衣替えの時期が定められていたのだろうが、そんなものもなく、そして春をすっ飛ばしたような生活である。曜日感覚の狂いは常に自覚していたが、季節感もまた狂うものだとは。皮肉な気づきだ。


思えば、少し前までは毎日のように、まだ黄色が残っているなぁ、なんて思っていたイチョウの木はいつのまにか緑の葉をつけ大きくなっているし、空は青さが増していた。その色に、小学校の窓から見ていた怪獣に似たシルエットの広葉樹を思い出す。密かに名前をつけていたような気がするが、思い出せない。当たり前だ。気づけば10年も時が流れているのだから。





巣篭もり生活も今日で丸々1ヶ月が経った。

元より私は一人遊びが好きな人間であったし、一日家にいても正直家で過ごすことにおいてはなんの苦痛もない。人に会いたい、仕事もしたい、もちろんその気持ちは日に日に膨らむばかりだが、家にいることは苦痛ではないので、これが世のためならばと耐えられている。


だが、なんの苦痛もないと言い切れるのは、その時間をしのぐためのインフラが整っているからであり、さらにそれを維持するために今も日々働いている人々のおかげだ。水も電気もガスも止まらずに使えるのは、誰かが働いている証拠なのだ。それだけじゃない、知らない職種もたくさんある。そのたくさんの職業で「日常生活」は守られている。

だが、そこに甘えていいわけではない。その人たちの働きがせめて最小限で終わるように、自分でどうにかできることは自分で、あとからできることはあとで、を心掛けている。というのも、金融機関で働く友人がいるのだが、日に日に疲れているのを、文字でも感じるのだ。そのうち連絡もしなくなるのではと心配している。わたしは、よくやってるよ、えらいよと声をかけることしかできないのだけれど。



そして、もちろん一定の警戒心や恐怖は抱いてはいるが、それでもパニックにならないのは、どうにか抑えようと、懸命に頭を悩ませ、身を粉にして、医療・介護の現場で戦っている人々のおかげだ。誰も代われない仕事である。
本当に本当に、この方々のおかげで、我々は安心して自粛ができている。本当に感謝しかない。

一方で、必死で働く人がいる中これでいいのかと思うこともあるけれど、こうすることが一番の協力だというから、家にいる選択をする。


もちろん、その選択が自分でできない(選択権がないという意味で)人々もいるだろう。一刻も早く、安心できる状況になってほしいと願うばかりだが、昼のワイドショーでは、人が来るから店を開けるのか、店が開いているから人が来るのか、という話をしていた。行かなければいいのだろうが、実際のところ本当に難しい話だ。わたしも正直わからない。ここのところそればかり考えている。

どこも苦しい状況だ。だからこそ、応援したいと、買いたくなってしまう。だが、それが「まだ来てくれるお客さんのために」という理由になったらどうしよう、と思うと、どうするべきなのかわからない。


というのも、歩く道の途中で花屋が開いていた。いつも、見かけてはもうそんな季節かと、心を綻ばせる花屋だ。その壁の文字で母の日がすぐそこだと気づいた。母には、毎年なんだかんだとカーネーションを贈っている気がする。今年はどうしようかと、考えたときに至ったのがさっきの話だ。いまだに答えは出ない。だからいつも、買わない選択を、行かない選択をしてしまう。だが、潰れないことを願っているのだ。人に生かされている自分が、物理的には誰かにどうすることもできないことが、本当に情けないと思った。だけれどそれでも、誰かの仕事の上にわたしの日常は続く。




ところで、人には、心と身体がある。
もっと詳しくいうと、身体の中に心がある。心だけが残ることはない。だから、いまは身体を守ることが最優先である。

だけれど、心の衰弱はじわじわと広がり身体を蝕む。わたしはそれを身をもって知っている。そしてまた逆も然りで、心にエネルギーがあれば不思議と肉体にもエネルギーが行き渡るのだ。綺麗事のように聞こえて、これは本当にそうである。心の元気は、人を生かす。

わたしの仕事は、その心のエネルギーを与える仕事だ。わたしもたくさんもらってきた。もらってきたから、いま、生きている。

夢を与える、希望を与える、というと、当事者としては正直ふわっとしか分かっていなかったけれど、これは、わたししかできないことでもあるのだと、やっと分かってきた。


テンションが上がるようなことはできるかわからない。これからの毎日がどうなるのかもわからない。ただ、約束事があるのはどうだろうか。明日も楽しみだな、と思えることが一つあれば、せめて誰かの心に灯火は灯るだろうか。

この生活は少なくともあと1ヶ月続くだろうと言われている。今まで誰も感じたことのない日々だ。だけど心配しないで、その日々を、わたしも一緒に生きている。


だから、明日から、その生活を書き記していこうと思う。わたしもここにいるよと、一緒に生きているよと。


わたしは偶像なんかじゃない。概念でもない。確かに、同じ地球に、同じ時代に生きている、あなたと同じ一人の人間だから。


だから、一緒に生き抜こう。


たった一つの空の下で。