その必要はないわ

その必要はないわ

ファイナンシャル・リテラシーを中心に、お金の問題を解決し、インキュベーターの誘いから、あの子を守るために、キャッシュフロー・ゲームを何度も繰り返している暁美家ほむです。
言葉の洗脳あふれる社会で、希望を叶えるための総合リテラシー活動をしています。

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ジャーナリストの大木道惠氏の

2012年のコラムに関連して、質疑応答がありました。


ここにはカルト問題が、


単純に加害者(団体)と、被害者(参加者)という図式では片付けられないことが、明瞭に示されています。


昨今、日本共産党の勢力であることを隠し、

正義を装う団体が気勢をあげていることに対して、

私は明らかなカルト問題を感じて、注目しています。


従来宗教団体による、ファンタジックな勇者物語と、


その善悪論と全くおなじ構図が見えています。



私としてはそこに、団体による陰謀論以上に、


個人の病んだ心の問題を見出さずにはいられないのです。



それでは、弊社刊行の


、暁美家現代思想文学資料集

『牧口常三郎 思想資料と解説』 著者:大木道惠


所収の記事をシェアしたいと思います。



「牧口常三郎についての断想」


牧口さんの思想はおそらく亡くなるまで「人生地理学」をもって原点とし基本としていたように思います。

その思想を「どのように実社会において有効たらしめるか」

というところから彼の宗教遍歴と運動の変遷があったと考えるべきでしょう。


戸田さんは、その牧口さんのある部分を継承したとはいえるでしょう。


牧口さんの「人生地理学」における思想的到達点とは、

ある意味では「発見」であり「卓見」であり「創造」でもありました。


それをそのまま篋底にしまい込んでいれば

それは「個人」に属するもものでしかありません。


修行とか達観というのもきわめて「個人」に属するものなのです。
また「思想そのもの」も同様です。


 それらと実社会の間にはなんら直截的つながり、

脈絡といってもいいですし、関連といってもいいですが、

それはありません。

 その「個人」がそれらを意志的に社会に機能させようとして、

はじめてなんらかの「意味」をもつということです。


 牧口さんの場合は

「人生地理学」の出版を考えたことで「意味」が生じ、

出版したことで「社会性」を持つこととなったわけです。


 その「個人レベル」での「意味」というものを「存在意義」ととらえるか、

それとも他のなんらかのものとしてとらえるのか、

それはある種の「カテゴライズ」であり

「価値判断」に属することになります。


 「宗教」とはまさに「カテゴライズ」であり

「価値判断」によるー囲い込みであるわけです。


さらにその強度を人為的に支配するのが「教団」ということになります。


つまり

○個人における「思想」「信仰」「修行」「達観」などというものは

 「社会性」とは直截には関係がない。


○それらが「宗教的共同体」として成立することによって

 社会と関わることになるが、

 ここで「個」と「社会」との葛藤が生じる。


○その葛藤を宗教的共同体の中において合理化

 することで「教団」が発生する。


 大ざっぱにはこのような段階があると思います。


2012年4月30日 


(質問者)

私の身近にいる学会員さんたちは、仏法というものと、

現実の問題の対処とを混同しているようにおもうのです。


 この部分は、たとえば、ある学会員さんに、

「仏法でなんでも悩みを解決できるといいますが、仏法と現実の悩みの解決法とは何ら関係ないではありませんか?」と質問したら、


「仏法は道理ですから、深い悩みに苦しんでいるときに、自分の弱さから誤った方向にいかないよう、同志や幹部の方達の意見や師匠の指導に触れることで、まっすぐに進んでいけるのだ」といい、


「悩みを薪にしてお題目を唱えることによって、その苦難を自分自身の宿命転換のチャンスとしていけます」というわけのわからない回答が返ってきます。


ようするに、社会的な解決法よりも、信仰にこだわっているわけですね。

こういった考え方が、結論として、

「○個人における「思想」「信仰」「修行」「達観」などというものは「社会性」とは直截には関係がない。」

ということなのでしょうか?



(大木氏)

関係性というのはソクラテスやプラトンの昔から哲学的命題でした。

老子や荘子においても同様ですね。

宗教という場にあっては、

その関係性で最重視され最優先されるのは、

それぞれの宗教が主張するところの「神仏」との関係性です。

この段階は、自己と神仏との1対1の関係ですから

「社会性」というものは生じていません。

ここにその「神仏」を理解するための「軌範」が

「教団」なり「指導者」から提示されると、

そこに小さいながらも信仰共同体という場での「社会性」が生まれるわけです。


「教団」なり「指導者」というのは「神仏」と信じる者を媒介しているわけです。

ところが、いつしか「教団」や「指導者」そして

「信じる者」までもが「神仏」の「代理人」を演じるようになてしまいました。


彼らにとって「信仰共同体」こそが真の社会であり真の世界というわけです。


そしてその「真の社会・真の世界」の「真理」や「真実」を、

無知なひとびとに知らしめようと考え行動するようになります。

いわゆる「布教活動」ですね。

「教団」の構成員は自ら「神仏」との関係を追求することなく

「教団」なり「指導者」の言うままに自分は

「神仏」と関係していると思い込むことになります。

場合によっては「指導者」すら例外ではないかもしれません。

こうした「信仰共同体」の範囲から社会との関係性を発生させるのが
「布教活動」だということです。



(質問者)

なるほど、彼らの「信仰共同体」拡大運動は、

もはや神仏とは無関係なわけなのですね。


これで話が合わないのは納得がいきます。

わかりやすい解説ありがとうございました。



(大木氏)

さらなる問題は、

そのことに彼らが気がついていないということなのです。



以上抜粋でした。

次回、補足したいと思います。