鎌をかけておいてマウントをとる | MTFのAkemiのblog イタリア児童文学・皆既日食・足摺岬が好き

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私は、イタリア児童文学が大好きで、皆既日食も大好きで、足摺岬も大好きな、団塊の世代に属する元大学教員で、性別はMTFです。季節の話題、お買い物の話題、イタリア語の勉強のしかた、新しく見つけたイタリアの楽しい本の話題などを、気楽に書いていこうと思っています。

わたくし、とある人文・社会科学系の(自分より少し年少の)研究者と、大学院が同じとか学統が同じとかいうのではないのに、ひょんなきっかけからご縁ができて、二十年あまり年賀状のやりとりなどを続けていたことがありました。

 

学問のいわゆる〝畑〟でいうと経済学だそうですが、法学、政治学、歴史学などにも幅広く手を広げ、博識な人でした。40歳そこそこで、数巻からなる大部な著作集をすでに出版社から出してもらえたというのですから、確かに大秀才です。その著作集というのも、エッセー集のようなものではなく、文献資料を駆使し、細かい注をつけて逐一典拠を挙げるという本格的な学術書でした。

 

で、わたしなんぞは足元にも及ばないような学識の持ち主であったわけですが、性格的にはちょっと「あれっ?」と思われる〝へんなところ〟のある人でした。

 

たとえば、他人の本の書評原稿を依頼されているのに、普通の書評者がするように、その本自体の細かい内容を先学の人たちの業績と突き合わせて「これこれの点が斬新であり、これぞ、この人が斯学に新たに付け加えた新知見と言いうる」としっかり品定めするのではなく、むしろその本によって触発された自分の問題意識を開陳し、その問題についての持論を展開することに紙面の半分以上を費やす、というような〝非常識〟な書き方をするのです。

 

それでも書評原稿の依頼なんぞをコンスタントに受けることができていたのは、その人が若くして某有名国立大学助教授という地位についていて、一目置かれていたからでしょう。

 

が、その主張を読んでみると、いつも、決まった〝癖〟のようなものがありました。

 

世の〝常識〟に〝果敢に挑戦〟し、「今の日本の知識人の多くはこの問題についてはこれこれの考えに流れる傾向があるが、それはその人たちが、おのれの育った時代の思潮から影響を受けたまま成長していない一種の〝思想的怠惰〟によるもので、これからの日本を主導すべき理念は、そのような方向からは出て来ない………」というふうな、………

 

これって、若いころ一時期だけ〝マルクス・ボーイ〟だった経歴があって、20代半ばぐらいで〝転向〟して保守派に寝返った人によくみられる〝癖〟です。

 

古いところでは戦前に〝転向〟した林房雄とか、

大東亜戦争肯定論 | 林 房雄 |本 | 通販 | Amazon

新しいところでは1990年代に〝転向〟した藤岡信勝とか、

教科書が教えない歴史 | 藤岡 信勝, 自由主義史観研究会 |本 | 通販 | Amazon

そのほか、わたしはあまり読んでいませんけど、伝え聞くところによると「60年安保世代」として括られる青木昌彦、香山健一、西部邁なんかもそれらと似たところがあったのかもしれません。

 

世の〝進歩派〟の人々を、ことあるごとに「青臭い」とこき下ろす態度の裏に、どうもそのおかた自体が「自分の過去の〝青臭さ〟が恥ずかしい」という心理を乗り越え切れていないがゆえに、天秤の逆の皿に錘を積まないといられないという、一種の強迫観念というか〝こだわり〟というかが、見え隠れしている感じがするのです(つまり、「人間、成長しなければいけない。若いときの青臭い思想なんかにこだわっちゃいけない」と言っているその人自身が、それをことさら言い立てることで、かえって自分の〝こだわり〟を白状しちゃっている)。

 

ただし、その御仁の場合は、林房雄とか藤岡信勝とかいうような人々ほどセンセーショナルに自分を売り出そうとはせず、あくまで高踏的な学究人という立場に踏みとどまっている点が違いましたが。

 

が、いずれにしても「どうもあの人、変な人だな」との思いがぬぐえないでいたあるとき、2010年代の初期でしたが、決定的に〝変だ!〟と気づかされる機会がありました。

 

それまでにもたびたびあったように、その御仁からなにやら難しい論文の抜き刷りが送られてきて、わたしのほうでは、それへの返礼となるような立派な学術論文などはなかったため、ほんの軽い備忘録程度の一文の抜き刷りをお送りして返礼に代えておきました。

 

それは「Silvana Gandolfi の文学の新しい傾向」というエッセーで、イタリアの児童文学作家シルヴァーナ・ガンドルフィさんが2010年に出した異色作「銃声の中のぼく」

Amazon.co.jp: Io dentro gli spari : Gandolfi, Silvana: 洋書

の要約紹介+若干の批評という軽い一文でした。そのエッセーそのものを自分の学問的業績として評価してもらおうなどという気持ちは毛頭なく、イタリア文学翻訳家としてはまったく無名の(素人の)わたしが裏でコツコツとつくりつつあった仮訳の原稿を、なんとか出版社に売り込めないかと考えて、そのための手段として、いちおう大学の紀要への寄稿文という体裁にしてガンドルフィ紹介の一文を書いておいたのです(残念ながらその仮訳原稿はいまだにどの出版社にも売り込めていません)。

 

その中に死刑存廃問題にほんの軽く触れた箇所がありましたが、それは本格的な死刑存廃論の議論ではなく、マフィアの殺人犯罪があれほど猖獗をきわめているイタリアでも最高刑は終身刑で、登場人物の検事フランチェスコが主人公である(マフィアに父と祖父を殺された)幼い子どものサンティーノに捜査に協力してほしいと言う場面でも「これはかたき討ちのためじゃなくて、正義のためなんだ」「……そんなことをする人でなしは、二度とそういう悪さをできない場所に閉じ込めておかなけりゃいけないと、思わないか?」と穏やかに言うだけで、「そんなことをする人でなしは、自分自身も殺されたほうがいいと、思わないか?」とは言っていない、つまり応報刑という考え方は卒業している、それがヨーロッパ連合の刑事思想の常識だ……といったことに軽く触れただけでした。

 

ところが例の御仁、このわたしの抜き刷りを受け取って、メールで書いてきた〝感想〟は、もっぱらこの点にだけこだわったものでした。

 

「死刑存廃論にも言及なさっておられますが、わたしもその問題には関心があります。わたしは死刑には一般予防効果があると考えています。このことを実証するデータを求めています。死刑を廃止した国について、廃止前と廃止後で殺人事件発生率に(統計学的に)有意な差があって、増加しているという結論が得られれば、死刑を廃止した国家は殺人の共犯者と呼べるから、死刑廃止論を下火にさせることができるでしょう。……わたしのしらべた範囲では、アムネスティーがスウェーデン〔であったかどうか、Eメールの受信記録が残っていないので、不確かですが、とにもかくにも北欧のどこかの国――以上Akemi注〕のデータにもとづき『死刑を廃止しても殺人事件が増加することはない』証拠としていますが、これでよいかどうか……」

 

……そんな文に加えて、アムネスティーのホームページにあったとかいうグラフがリンクしてありました。

 

わたしは、このメールをみて、愕然としました。これはいつものこの御仁の〝癖〟が出たという以上に、もう〝病膏肓〟の域に入っている。この人、わたしに何か〝鎌をかけたくて〟このメールを寄越したのではないかと。

 

死刑は、被告人を二度と世に出られないようにするのだから、特別予防効果は100%でしょうが、その目的のためなら、終身刑でも同じじゃないかということになり、わざわざ「殺す」ことの積極的理由づけにはなりません。検事のフランチェスコの言っているとおり「二度とそういう悪さをできない場所に閉じ込めておく」だけで充分です。

 

そこで、じゃあ「一般予防効果はあるのか?」が次の争点になるわけですが、そもそもあの御仁、2010年代前半の日本で、わざわざ「下火にさせる」必要があるほどの死刑廃止論が存続しているとでも思っていたのでしょうか。

 

光市母子殺害事件に関連して、

光市母子殺害事件 - Wikipedia

橋下徹弁護士がマスコミの寵児となって死刑廃止論者バッシングを繰り広げ、そのペナル・ポピュリズム(刑罰に関するポピュリズム)が猖獗をきわめ、まるで日本中が死刑存置論一色に塗りつぶされたかのような観を呈したのが、あの2010年前後だったではありませんか。

Amazon.co.jp: グローバル化する厳罰化とポピュリズム : 日本犯罪社会学会, 日本犯罪社会学会, 浜井 浩一: 本

 

あの御仁がもし誠実な死刑存置論者であったなら、むしろ、味方の中に「おまえ自身の身内が残酷な殺人事件で殺されても、同じことが言えるのか!」などとバカの一つおぼえのようなことしか言わない(この主張をまるで水戸黄門の印籠のように振り回す)軽佻浮薄な連中が多過ぎることを、まずしっかり批判してかかるべきではありませんか。

それに、この御仁は、「死刑には冤罪処刑というリスクと、殺人の未然防止というメリットとがあるが、確率論的に前者の量より後者の量が大きければ、リスク管理の見地から死刑は採用すべき制度だということになる」と言いたいようでしたが、冤罪死刑という究極の人権侵害を、企業経営と同じようなリスク管理の問題として語りうると考える「経済学的」神経自体が私には理解しがたく思えました。

この御仁、「死刑を実施しない」という政策上の「不作為」を「殺人の共犯」と決めつけるまでの拡張解釈的な犯罪概念を主張する一方で、薬害死亡者をたくさん出した薬品認可責任者や、冤罪死刑判決を導いた捜査官などを同じく殺人者として告発することなどは、いっさいしません。なんとも不思議な御仁です。

 

「これに正面から答えたら、なにか変な罠に嵌められる」と直感したわたしは、「なるほど、むずかしい問題ですが、わたしは統計学は苦手で根が文学的な人間ですから、死刑の存廃という問題については、ギリシャ悲劇『アンティゴネー』をどう読み解くか、というようなレベルでしか論じることができず、ご期待に沿えないのが残念です」と返事しておきました。

 

そしたら、ほとんど間をおかずにその御仁から返ってきた返信には、新しい統計資料がリンクしてあり、「アムネスティーのホームページにあったグラフは、自分らの主張に都合のよい趨勢が現われる期間に限定して〝死刑を廃止しても殺人事件は増加しない〟証拠として恣意的に使っているもので、明示されている期間より前、および後に期間を延伸してみると、むしろ〝死刑廃止の結果殺人事件が増加している〟という趨勢線が観察される」とかいう〝解釈〟がつけられていました(彼の〝ドヤ顔〟が目にみえるみたいです)。

 

明らかにこの御仁、わたしに第一便をくれた段階でそのグラフをすでに知っていて、手の内に隠しこめ、第二弾発射の準備はすでに完了していたのです。

 

この御仁はなにごとにつけ、このたぐいの議論のやりとりをするのが好きでやめられないのです。もしわたしが「その統計、確かに説得性がありますねえ……」とか「わたしは死刑廃止論者なので、お示しになったグラフを拝見して安堵しました……」とか返信していたら、それこそ彼の思うつぼ。「ところがどっこい、そうじゃないんですよ」と、わたしを〝やりこめにくる〟予定が、すでに立っていたのですね。

 

うまくかわしてよかった!

 

こういう「鎌をかけておいてマウントを取る」という行動は、あからさまにいやったらしいとともに、幼児的だなあと思いました。

「マウントをとる」人とは。共通する特徴と覚えておきたい上手な対処法 | Oggi.jp

 

「あの大秀才の御仁、やっぱりメンタル面でかなり問題があったのだ」とわたしは思い、以後、この人の送って来る学術論文の抜き刷りには返礼せず、年賀状を出すのもやめました。

 

今の言葉でいえば「発達障害」「自閉スペクトラム症」だと思います。

 

たぶんあの御仁自身は、今ふりかえっても、あのやりとりのとき特段相手に失礼なことをしたとも思っていないのでしょう。精神疾患ですからねえ。

 

     *     *     *

 

もっとも、わたし自身がこのごろ痛感しているのは、わたしもそのような「鎌をかけておいてマウントを取る」ような幼児的行動を、過去にかなりの回数やったことがある、という恥ずかしい事実です。それによって〝あきれられて〟、以後年賀状もこなくなったという例がかなりあります。このごろになってようやく「あのときのやり方は幼児的だったなあ」と気がついているのです。

 

人の振り見てわが振り直せ、です。自戒、自戒!