古巣馨神父とシスター宇田の「風に立つライオン」のような話 | MTFのAkemiのblog イタリア児童文学・皆既日食・足摺岬が好き

MTFのAkemiのblog イタリア児童文学・皆既日食・足摺岬が好き

私は、イタリア児童文学が大好きで、皆既日食も大好きで、足摺岬も大好きな、団塊の世代に属する元大学教員で、性別はMTFです。季節の話題、お買い物の話題、イタリア語の勉強のしかた、新しく見つけたイタリアの楽しい本の話題などを、気楽に書いていこうと思っています。

✝主のご復活おめでとうございます。

 

定期購読者ではないけどたまたま碑文谷教会で無料で手に入った『カトリック生活』の4月号を読んでいたら、ピタッと心の琴線に触れる記事がありました。長崎教区司祭古巣馨師の連載エッセー「預言者の言づて」の第28回。題して「もしできることなら」。

 

 

 

古巣師(1954年生まれ)が司祭叙階を受けてまもない駆け出しのころ、師の初の赴任先の教会で子供会のお世話をしていた、小柄で無垢ではちきれるほど活発なシスター宇田という人がいて、その人とのやりとりの中で、師がとんだ失敗をしたという話が告白されています。

 

そこの教会の主任司祭の霊名は日本二十六聖人の一人で、殉教のときまだ少年だった長崎のアントニオ。同年輩の少年殉教者としてルドビコ茨木、トマス小崎がいますが、アントニオは姓がわかっておらず、ただ「長崎のアントニオ」としか伝わっていません。

 

 

 

主任司祭の霊名祝日のお祝いの準備をしていたシスター宇田から「アントニオの姓は何だったんですか。できることなら知りたいんです」と問われた古巣師は、冗談のつもりで「アントニオの姓は猪木とわかりましたよ!」と言ってしまったそうですが、1980年代初期のことですから、「アントニオ猪木」といえば有名なプロレス選手の名だということを、世間知のある人はみんな知っていた時代です。

 

ところがあまりにも無垢なシスター宇田は、それを冗談と気づかないまま霊名祝日のお祝いの飾りまでつくってしまって(「聖アントニオ猪木・浜口庄八神父さま、ご霊名の祝日おめでとうございます」)、お祝い当日に小学校高学年の訳知りの子どもたちから失笑を買う羽目になったというのです。シスター宇田に謝ろうと思って機を逸してしまった古巣師は、その後永く、自分を責めて苦しむことになります。シスターのほうも、子どもたちの前で赤っ恥をかいたその教区教会には二度と姿を現わせなくなったそうですけど、そのはち切れるほどの活動力のゆえか、三日で打撃から立ち直ったときは早速ブラジル宣教に派遣されることを志願し、新しい道に踏み出したとのこと(すでに53歳だったのに)。

 

五年ぶりに再会したときシスター宇田は「お元気ですか。私のことを覚えておられますか。シンプさまのおかげで私はブラジルのパラナ州アモレイラで、子どもたちのお世話をさせてもらっています。とっても貧しいのですが、みんな目が輝いていて私のほうが大切なものをたくさん分けてもらっています」と屈託なく話に花を咲かせ、古巣師は、あの、冗談で傷つけてしまったときのことのせめて慰謝料代わりになればと、そのとき通帳にあった貯金を全部そのブラジルの学校のための寄付にして、やっと少し心の重荷がとれたように思ったとのことです。

 

その後の話もあって、シスターが今年1月29日に93歳で帰天されたというところまで話が続きます。

 

わたしはこれを読んで、さだまさし作詞・作曲・唄の「風に立つライオン」という歌の歌い出しのところの歌詞を思い出しました。「突然の手紙には驚いたけど嬉しかった、何より君が僕を怨んでいなかったということが。これから此処で過ごす僕の毎日の大切な、よりどころになります、ありがとう、ありがとう」。

風に立つライオン シネマヴァージョン - YouTube

 

 

歌の中では語り手の「僕」の側が、気まずいことをしてしまった相手である「君」から離れるために国境なき医師団に志願してアフリカに旅立って三年経ったという話になっていますが、気まずいことのあったあとで一方は遠い第三世界の土地へ旅立ち、一方は日本に残るという状況はよく似ています。

 

記事の中でシスター宇田は子どもらのつけた「うだパッチ」というあだ名で呼ばれ、あまりクローズアップではないけれども表情のわかる写真も4枚載っていますので(表情からシスター宇田の無垢で明るい性格が読み取れます)、このエッセーは通り一遍の説教記事にはない、生き生きと心に伝わってくるものがありました。

 

古巣師はその体験を、自分が二十六聖人に続く二十七番目の十字架にうだパッチを釘付けにしてしまったことのように思えると、表現しています。

 

そして最後のほうに、つぎのようにあります。

 

     *     *     *

 

うだパッチの死に水をとったのは、あのとき群衆の中に紛れ込んだ後輩の姉妹です。今、同会の総長さんになっておられます。「私が打ち込んだ釘の痕は残っていませんでしたか?」「はい、まだくっきりと残っておりましたよ。でも、その傷跡がいちばん輝いて見えました」