日本会議系のメディアにしばしば引用される「憂国・悲憤慷慨」調の短歌があります。
かくまでに醜き国となりたれば捧げし人のただに惜しまる
『昭和万葉集』に収録されている戦争未亡人の歌だそうです〔注〕。作者は日本遺族会の会員だったに違いありません。
右翼思想家渡部昇一がこの歌を熱烈賛美している動画↓
日本遺族会は、終戦後まもなく、軍人恩給の停止によって経済的困窮に陥った旧軍人遺族が立ち上げた互助組織「日本遺族厚生連盟」を起源としていますが、占領終了後、戦犯復活組の賀屋興宣(岸信介と巣鴨プリズンで一緒だった)が会長に就任したころから戦前回帰的な思想性を帯びるようになり、靖国神社国家護持運動や公式参拝運動の拠点となってきた政治的かつ宗教的な組織です。
戦争遺族がみんな日本遺族会の思想を是としていたわけではないでしょうが、会報が毎号のように「英霊を敬う心を失ったことで、戦後日本は物質万能の道義の廃れた国になった。今こそ正しい道徳教育の復興を!」といった思想を繰り返し繰り返し載せていたため、会員の多くはそういう右傾思想を何となく肯定してしまう方向になびいたようです。
このような思想は、日本遺族会がもはや使命を終えた今でも、靖国神社の月報『靖國』で、毎月「これでもか、これでもか」というぐらい、執拗に宣伝され続けており、それがそのまま、今や自民党国会議員の大多数を取り込んだと言われる極右団体日本会議の思想にもなっています。
この短歌の作者も、日本遺族会的、靖国神社的、日本会議的思想から強い影響を受けていたことがうかがわれます。
しかし、詩や歌曲のような芸術作品は、必ずしも原作者がそれを創ったときの創作動機に縛られて解釈しなければならないものでもなく、後世の人が自分の体験に引き寄せて、「自分としてはこのように受け止める」という態度で理解し、鑑賞しても、かまわないものです。
たとえば、岡村孝子作詞・作曲・唄『夢をあきらめないで』は、作者の失恋体験に即して創作された曲でしたが、発表後しばらくすると、これを人生への応援歌と受け止める人が多くなり、今では、創作当時の作者の動機とは独立に、曲そのものとして愛唱されています。作者自身も、それでいいと言っています。
そこで先ほどの「憂国、悲憤慷慨」調の短歌ですが、わたしは去る12月15日以来、これを戦前回帰的な右傾思想の歌としてではなく、「赤木雅子さんを応援する歌」と受け止めることにしました。
世襲政治家が国家を私物化し、公文書改竄という重大犯罪を私利私欲のために官僚組織に押し付け、真面目で誠実に働いてきた中堅の公務員を自死に追いやり、そのうえ民事訴訟がを起こされたら、「請求どおりの金額を払ってやるから裁判は終わりだ。真相究明のための証人尋問などは一切やらせない」との態度に出るとは、あきれて物も言えない「醜き国」です。この国家のいったいどこに道義があるのか、何が「美しい国」だ、何が「英霊への尊崇の念」だ、と言いたくなります。
原作では:
醜き国=戦後右翼が言うところの、殉国精神を失った情けない国
捧げし人=靖国神社に祀られている「英霊」
でしょうが、新しい受け止め方においては:
醜き国=世襲政治家に私物化された、立憲制度を踏みにじった国
捧げし人=誠実に働いてついに自死に追い込まれた赤木俊夫さん
です。
〔注〕「かくまでに」を「かくまでも」と写しているウェブサイトもあります。わたしは原本を持っていないのでとりあえず渡部昇一の引用に従っておきます。