『千の風になって』の新井満さん帰天 | MTFのAkemiのblog イタリア児童文学・皆既日食・足摺岬が好き

MTFのAkemiのblog イタリア児童文学・皆既日食・足摺岬が好き

私は、イタリア児童文学が大好きで、皆既日食も大好きで、足摺岬も大好きな、団塊の世代に属する元大学教員で、性別はMTFです。季節の話題、お買い物の話題、イタリア語の勉強のしかた、新しく見つけたイタリアの楽しい本の話題などを、気楽に書いていこうと思っています。

2007年ごろ話題になった曲『千の風になって』の作者(厳密には訳詞・作曲者)新井満さんが12月3日に帰天なさったそうです。

 

新井満さんといえば、芥川賞受賞の直後に出た作品集『尋ね人の時間』

以外には読んだことがありませんが、小説家だとばかり思っていました。

 

『千の風になって』が、原詩を大胆に意訳したその歌詞のみならず、メロディーも彼の手になるものだと聞いたときは「へえ、そんな才能もあったの」と感心したものです。

 

『千の風になって』は、テノール歌手の秋川雅史さんが歌ったバージョンが音源としてはよく売れ、秋川さんの定番のオハコとなりましたが、新井満さん自身が歌った動画も残されています。

 

 

この曲のもとになっている英語の原詩がいつ、どこで、だれによって書かれたかについては、当初はいろんな説が乱れ飛びましたが、井上文勝さんが『「千の風になって」紙袋に書かれた詩』という本で提示した説が今では定説になっています。

 

 

その説の紹介と、詩に漂っている情感の〝比較宗教学的〟な考察などを、わたしは個人新聞『ふだらく通信』の第93号(2007年7月)に書いたことがありますので、それを以下に転載します。

 

     *     *     *

  

キザですみませんが

 暑中お見舞い申し上げます。3ヵ月ぶりに『ふだらく通信』をお届けします。

 今回の号では英語の歌詞や漢文のお経などを、そのまま引用してしまいます。見ようによってはキザな趣味みたいに見えてしまうでしょうね。

 が、これはむしろ、私が英語も漢文もそんなに得意でないからなんです。正確に訳しなさいと言われたら「ハテ?」と迷ってしまいます。というわけで、「こんな歌詞があったよ」「こんな経文があったよ」ということを、ご参考までに、引用元に書いてあったとおりに引き写しておくのです。適当に読み飛ばしてください。

 

「千の風になって」の原作者は?

 前号でもちょっと触れましたが、「私のお墓の前で泣かないでください」という歌詞で始まる『千の風になって』という歌が、注目を集めています。

 この歌はもともと、追悼行事の会場で朗読される詩として、かなり前からアメリカを中心に広まっていた作者不詳の英語の詩を、小説家の新井満さんが大胆に意訳して、曲をつけて2003年に売り出したものだそうです。発表後徐々に人々の関心を惹くようになり、2006年の大晦日に秋川雅史さんが紅白歌合戦で歌ったのを機に、爆発的に広まったものだそうです。

 死者が生者に向かって語りかけるという体裁をとったこの詩、実は複数のバージョンがあって、どれがオリジナル版なのか、いつ創作されたのか、原作者はだれなのか、近年まで不詳だったそうですが、最近になって、原作者はメアリー・フライというアメリカ人女性で、創られたのは1932年だという説が通説化してきました。

 ドイツでヒトラーが政権の座につき、ユダヤ人迫害が始まったとき、ユダヤ系ドイツ人の中にはいちはやく危険を感じて出国し、アメリカに渡った人々がいました。マーガレット・シュワルツコフもその一人でした。しかし、老齢で病気がちな母親は長途の旅行に耐えられなかったため、母国に残したままでした。アメリカでのマーガレットはメアリー・フライを始めとする温かい隣人に迎えられて、身を落ち着けますが、寝ても醒めても気がかりなのは、残してきた母親のこと。

 やがてマーガレットのもとに母親の訃報が届きます。でも、墓参のために一時帰国できるような情勢ではありませんでした。ある日、メアリーと一緒に買い物に行った帰り、買物袋の中身を二人で仕分けしていて、母の好物だった品物をみつけたマーガレットは、泣き崩れます。「私は母のお墓の前に立ってさよならを告げることもできないんだわ」と。そのとき思い余ったメアリーが、心からほとばしるままに買物袋の茶色い紙にペンで走り書きしたのが、次の詩だったということです。

 

Do not stand at my grave and weep

              Words by Mary Frye

 

  Do not stand at my grave and weep

  I am not there, I do not sleep

  I am in a thousand winds that blow

  I am the softly falling snow

  I am the gentle showers of rain

  I am the fields of ripening grain

  I am in the morning hush

  I am in the graceful rush

  Of beautiful birds in circling flight

  I am the starshine of the night

  I am in the flowers that bloom

  I am in a quiet room

  I am in the birds that sing

  I am in the each lovely thing

  Do not stand at my grave and cry

  I am not there I do not die

 

 しばらく2階の自室に引きこもって泣いていたマーガレットが、やっと少し落ち着きを取り戻して階下に降りて来たとき、メアリーは彼女の手にさっきの詩をそっと手渡して言いました。「これ、私が書いた詩なの。私の思う“人の生と死のあり方”なの。あなたのためになるかどうか分からないけど」。

 マーガレットは詩を一読し、メアリーを抱き締めて言ったそうです。「私、この詩を一生大切にするわ」。

 この即興の詩が後に徐々に世の中に広まって、現在のような隆盛を見るようになったのだそうです。

 なお、メアリー・フライは1905年11月13日に生まれ、2004年9月15日に98の歳の天寿を全うしたそうです。

 

仏教的か非仏教的か?

 さて、この『千の風になって』ですが、わが国で今という時代にこれが急に流行するようになった事実については、さまざまな解釈や批評が飛び交っています。いちいち参照するのもわずらわしいですが、告別式で流されたり、中高年の集まる歌声喫茶で合唱されたりと、時代の「現象」になっていることだけは確かです。

 お葬式のときにあれを流されちゃ、その後の「お墓参り」が繁盛しなくなるから、葬儀社にとってはいい商売でも、お墓を管理する仏教寺院にとっては、商売にマイナスではないか、などという皮肉っぽい批評もありました。が、それは冗談だとしても、多くの日本人にこの詩が歓迎されるのは、仏教精神に沿った動きなのか、むしろ逆なのかについて、仏教界でも受け止め方は二通りに分かれているようです。

 去る6月20日付けの『朝日新聞』には日蓮宗現代宗教研究所主任の伊藤立教さんの意見として、『千の風になって』が注目されているのは、仏教の教えが理解されていないからではないか、との疑問が書かれてありました。伊藤さんによれば、仏教の功績は、成仏や浄土を説くことで安心して臨終を迎えられ、残された人も葬儀や回向という儀礼を通じて死者と向き合えるようにしたこと。『千の風』は死に対する安心を授けえなかったそれ以前のアニミズムへの回帰ではないかというのです。

 が、私はそうとは思いません。そもそも、浄土に往生するという思想は、必ずしも「往ったら往きっぱなし」という思想ではありません。いのちの根源の世界に往生するからこそ、自分のいのちは真に自由になって、森羅万象はみんな私の顕れになるんだ――そういう考えは、前号に引用した坂村真民さんの詩にも見られました。私が東大寺で授かってきたお経(四十巻華厳経の最後の部分〔注〕)にも次のように書かれています。

 

  願我臨欲命終時 尽除一切諸障礙

  面見彼仏阿弥陀 即得往生安楽刹

  我既往生彼国已 現前成就此大願

  一切円満尽無余 利楽一切衆生界

  彼仏衆会咸清浄 我時於勝蓮華生

  親覩如来無量光 現前授我菩提記

  蒙彼如来授記已 化身無数百倶胝

  智力広大遍十方 普利一切衆生界

 

   がんがーりんにょくみょうじゅーじー

   じんじょーいっさいしょーしょーげー

   めんけんひーぶつあーみーだー

   そくとくおーじょーあんらくせつ

   がーきーおーじょーひーこくいー

   げんぜんじょーじゅーしーだいがん

   いっさいえんまんじんむーよー

   りーらくいっさいしゅーじょーかい

   ひーぶつしゅーえーげんしょーじょー

   がーじーおーしょーれんげーしょー

   しんとーにょーらいむーりょーこー

   げんぜんじゅーがーぼーだいきー

   もーひーにょーらいじゅーきーいー

   けーしんむーしゅーひゃっくーてー

   ちーりきこーだいへんじっぽー

   ふーりーいっさいしゅーじょーかい

 

 大意は「この世の寿命尽きたとき、浄土で阿弥陀仏にまのあたりにお目にかかれますように。そして『あなたも仏になれます』との確約をいただいたなら、そのときこそ私は無数の化身となって(千の風になって!)、あらゆる衆生の世界に入ってゆき、縦横無尽に皆様のお役に立ち、悟りのよすがとなりましょう」という意味です。

 

 

〔注〕「普賢行願讃」と呼ばれています。