当ブログでは基本的に政治の話は書かない方針なんですけど、昨今の「忖度」ばやりの世の風潮には唖然とすることが多く、少しは政治がらみのことも書き残しておきたくなりました。
安倍・菅政権の「恫喝」の言いなりになって、すっかり腰が抜けてしまったのは官僚だけではない。天下の木鐸たるべき大手マスコミまで、それに近くなってきている昨今。
ズバリ言いたいことを書いてくれるのは『日刊ゲンダイ』みたいな、最初から「クォリティー・ペーパー」ではないことに開き直っている――それゆえに「しがらみ」のない――メディアだけ、……と言いたいところですが、もうひとつ、東京ではどうせメジャーにはなれないことがわかっているがゆえに「失うもののない」立場にある『東京新聞』もそうですね。その社説を読むと「そうそう、その通り」と、相鎚を打ちたくなることが多いです。たとえば憲法違反の「臨時国会開催拒否」を続けたあげく、自党の総裁選のほうに天下の耳目を引きつけて、余勢を駆って衆議院総選挙になだれ込んでしまえば野党の政権批判をかわすことができると踏んでいるに違いない自民党の党利党略にも、ずばり批判の矢を放っています。
でも、そんな『東京新聞』の社説でも、たまには「わたしの意見とは違うな」と思える主張が載ることもあります。今年の2月24日に那覇市の孔子廟への市有地無償提供を違憲とする最高裁判決が出たのを受けて、翌日の社説が掲げた主張はその例でした。
もちろん、政教分離に関してはいろんな意見があってよいので、上の主張もひとつの主張としては結構なのですが、それならせめて、それとは反対の意見もあることを何からの別の形で報道するかと思いきや、それっきり。
そうなると、わたしとしては、杞憂かもしれないけれど、つぎのような「勘ぐり」を入れたくもなってきました。
この社説の立場は、「孔子廟訴訟は、中国との文化交流を優遇しがちな那覇市当局に対し、快い気持ちを抱いていない人たちが起こした訴訟だから、司法が彼らの言い分を認めたのに対しては少し批判を書いておいたほうがいい」という、政治的判断に影響されているのではないか?……と。
もしそうだとすると、それは「策士策に溺れる」であって、むしろ、そのことでかえって、常日頃から憲法の政教分離規定を骨抜きにすることを虎視眈々とねらっている『産経新聞』的連中の思うつぼに嵌められた感があります。
「そうだそうだ、『東京新聞』さん、わたしどもがいつも主張してきた『習俗や社会的儀礼に対しては政教分離を杓子定規に適用しないほうがいい』との主張を、遅ればせながら貴紙もお認めになったわけですなあ。まことに結構、結構」というぐあいに褒め殺しにされかねない。
あるいは、「靖国をめぐってはいつも政教分離、政教分離と過剰に騒ぎたがっていた左翼マスコミも、ほかの問題となると、必ずしも政教分離をやかましく言わないじゃないか。これでわかるように、彼らの主張はもともとダブルスタンダードだったのだ。彼らの護憲論は、憲法論というよりは政治論だったんだ。馬脚を現わしたんだ」と言われるかもしれない。それがたんなる邪推ではなく、ほんとに当たっている可能性があるところに、わたしは少しやりきれない気持ちをいだきます。
原告が右翼の息のかかった反中派だったのかどうなのかなんかは、わたしは知りませんし、そんなことはどうでもよいと思います。憲法20条の政教分離原則がしっかり守られるべきであるのは、原告がどういう政治的意図のもとに訴訟を起こしたかなどとは独立に、です。
社説の書き手がそこの一点をぼかしてしまって平気でいるのは、21世紀に入ってから顕著になってきた「靖国問題とは、中韓に対して過去の悪い戦争と植民地支配への反省・謝罪をしっかりしましょうという、政治・外交のレベルの問題だ」という皮相的理解に、若い世代のマスコミ人が、『東京新聞』論説委員をも含めて呑み込まれてしまったせいではないかと、心配になりました。
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