上郡康子さんの話(8) | MTFのAkemiのblog イタリア児童文学・皆既日食・足摺岬が好き

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私は、イタリア児童文学が大好きで、皆既日食も大好きで、足摺岬も大好きな、団塊の世代に属する元大学教員で、性別はMTFです。季節の話題、お買い物の話題、イタリア語の勉強のしかた、新しく見つけたイタリアの楽しい本の話題などを、気楽に書いていこうと思っています。

そして結局のところ、わたしと上郡康子さんとの仲はどうなったかというと、1970年の4月にもらった手紙が最後で、以後、交流はとだえました。オーストリアでの彼女の二度目の下宿替えの際、住所を教えてもらえなくて、以後、コンタクトをもつてがかりさえなくなってしまったのです。

 

わたしが彼女に対してやったことを考えれば、当然すぎる結末でした。

 

1969年の夏に一度、宥和的な優しい筆致の手紙をもらいました。「しばらく連絡しなくて、ごめんなさい。わたしがAkemiさんに対して、姉さん気取りで『大学紛争なんか早くやめさせるのが学生の本分ですね』みたいなアドバイスを書いてしまって以来、気持ちの行き違いが起こり、お叱りのお手紙をたくさん頂いてしまいましたね。わたしが至らなかった点もあると思います。わたしのことをAkemiさんは、『〝世の中のことはすべて、個々人が努力するかしないかで決まることで、自分の境遇を社会のせいにする人は卑怯です〟みたいな単純な考えしかもたない、典型的な、視野の狭い優等生』というふうに評価していらっしゃるのですね。わたしがAkemiさんの目にそんなふうに見えてしまったのなら、言い訳がましいことは書いてもしかたがないと思います。ただ、わたしがどんな気持ちで留学生の試験に挑戦する気になったか、また、それに先立ってなぜキリスト教の洗礼を受ける気持ちになったなどを、知っていただけたらと思って、少しだけ書かせてください。……」というような内容でした。

 

差し支えない範囲で、家庭の事情、留学生試験に挑戦するより一年前に起こったお兄さんの事故死という衝撃的な体験などの話が綴られていて、キリスト教の洗礼についても、その体験をする前に抱いていた動機はまだまだ甘かったことを痛感して、根本的に自分をみつめ直したうえで受洗に至ったのであることなどを、打ち明けてくれていました。

 

「なるほど、そんなことだったのか」とわたしは思いました。そのときにきっぱりと、それまでの拗ねた態度の矛を収めて、「ご事情、よくわかりました。これからもいい友達でいてください」と言って、その線を守り通しさえすればよかったのに……と、今さらながら悔やまれます。

 

実際、そのときの手紙に対しては、確かに「矛を収める」ような返事を出し、康子さんにも安堵してもらえたと思います。

 

それなのに、時間が経つにつれて、またまたわたしは拗ねた態度に戻ってしまったのです。「どうせあなたみたいな視野の狭い『優等生』に、世の中のことなんか、わかるわけがない」というようなことを言い募る、いや、書き募る。……なぜそんな愚かなことをしてしまったのかというと、つまるところはただ一点、「婚約者」うんぬんの顛末について、はっきりしたことを言ってもらえなかったことについて、わたしは拗ねていたのです。

 

翌1970年の3月、久しぶりに届いた康子さんからの手紙は、かなり厳しいものでした。「何度も何度も、同じことを蒸し返しなさっても、お答えをするすべがみつかりません。もう少しは発展的な考えをなさる方だと思っていました」とか。手紙の冒頭に「わたしがAkemiさんに対して、お友達として抱いている気持ちは最初から少しも変わっていないということを前提に、この手紙を読んでいただきたいのですが」と、断わり書きが書いてはありましたが。

 

それに対して、わたしはただただ、「しゃくだ!」という気持ちしか持てませんでした。とりわけ、「オーストリアに旅立つにあたって、いついっかに旅立つという予定も教えてもらえなかったのが、悔しくてなりません」というわたしの追及に対して、康子さんが「わたしは予定通りにオーストリアに旅立ったのであって、あなたに知らせるとか知らせないとかは、問題ではなかったのです」と書いてきたことについて、カチーンときてしまいました。

 

「見返してやりたい!」――そう思ったわたしは、「もうこうなったら、嘘でもなんでも言ってやれ!」と、やけっぱちになりました。そして、「じつはぼくは最近、これこれこういう女友達と知り合いになりました」というまったく根も葉もない話を〝創作〟しました。原稿用紙にして30枚ぐらいになるでしょうか。長々と書きました。「あなたはぼくに対して『眼中にない』ということを今度の手紙で言いたいんでしょうが、おあいにくさま。ぼくのほうも康子さんのことなんぞ『眼中にない』と言えるぐらいの、すばらしい女友達に出会っちゃいましたもんね~!」、「あっかんべー!」

 

その架空の女友達というのは、「康子さんがドイツ語と音楽なら、ぼくはイタリア語と美術で行ってやろう」と対抗意識を燃やしたときの、これからの自分の理想とする勉強のあり方を、まさに実践している人、を想定して、その性別を女性と仮定して書いたものです。

 

その人は、わたしが国立近代美術館で作品を鑑賞していて、「わからないなあ~」と独り言をつぶやいたときに、それを横から聞いて、たまたま、わたしよりもその作品について知識があったために、解説してくれた人だった……ということにして、書き始めました。年齢は同い年で、女子美術大学の学生だ……ということにしました。

 

喫茶店でいろいろ話してみていたら、意外なことに、わたしが当時学ぼうと思いつつも難儀していたイタリア語を、ペラペラっと、しゃべってみせるではないか!

 

「えっ、イタリア語なんか、知ってるんですか?」と尋ねてみたら、イタリアに留学したくて、勉強しているとのことだった。

 

それからさらに話を続けてゆくうちに、イタリア語はもうだいぶん前から勉強していて、聖書はいつも日本語訳とイタリア語訳を対照しながら読んでいるとか、ラテン語も少しかじっているとか。

 

「マタイによる福音書」23章8節の「あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない」や同10節の「『教師』と呼ばれてもならない」などは、イタリア語訳では使役動詞の再帰形が使われているのだから「自分を『先生』と呼ばせてはならない」、「自分を『教師』と呼ばせてもならない」と訳すべきではないかと思う……とか、彼女は聖書翻訳論についてさえ、堂々と一家言を述べはじめる。しかもそのあと、「まだギリシャ語を勉強していないので、正確なところはわかりませんけどね」と言い、あの難しい、チンプンカンプンの古典ギリシャ語さえ、これから勉強しようという意気込みだ。

 

最初わたしは「絵はほどほどに上手いけれど、ほかの勉強については平凡、という普通の美大生だろう」と思っていたが、ぜんぜんそうじゃない。文学、哲学、思想なんてことについても、いろんなことを知っている。「へーっ」と感心しながら、彼女のこれまでの経歴を聞いてみると、美大志望に変わるまでは、普通科の受験勉強をして、お茶の水女子大とか、そのへんのランクの学校を受験するつもりでいた……とか。

 

「中学・高校はどこの学校へ行ってたんですか?」と尋ねてみたら、井の頭公園の近くにある、日本聖公会系のミッションスクールR女学院に行っていたとか。

 

「じゃあ、キリスト教の教育受けてるんですか?」と尋ねてみたら、びっくり仰天する答えが返ってきた。「わたしはもともと形式的にはカトリック教徒なんです。親が信者で、幼児洗礼を受けていますから。だから、親はわたしをカトリック系のミッションスクールに行かせたがっていたんだけど、わたしは、制服もなくて自由なR女学院のほうがいいって言って、反抗しちゃったんです。その時点で親の引いたレールからは外れちゃったわけ」と。

 

それを聞いて、「カトリックといえば、上郡康子さんと同じではないか。それでいながら、あの視野の狭い優等生の康子さんと、この人ときたら、何と違うことか」と、驚いた。

 

「小学校のあいだは、親の言うままにカトリックの教会に行って、初聖体も済ませているから、今でもカトリックの教会に行けばご聖体をいただく資格はあるんだけど、思春期を迎えて、いろんな思想について学ぶにつれて、カトリックを絶対視する気持ちになれなくなって、今は教会に行くのは控えているんです。だから、堅信式も受けていなくて、両親の期待には沿っていないんです。でも、聖書の勉強はしているので、将来、納得のいくキリスト教の解釈に出会えれば、またキリスト教を見直す機会もあるかもしれないけど……」

 

「へえーっ、キリスト教といっても、それだけ反省的にとらえて、盲従していないのは、さすが並みの『優等生』ではないからだ。こういう人の話なら、傾聴するに値する」と、感動したわたしは、パゾリーニの映画『奇跡の丘』への感想なども尋ねてみて、彼女から、打てば響くような反応を引き出すことができた。

 

「あの映画の中の洗礼者ヨハネの殉教の場面で、処刑の原因をつくったヘロデアの娘サロメの描き方が、さすがパゾリーニですね。凡庸な映画人ならことさらに淫猥な雰囲気を漂わせた少女としてサロメ描くでしょうに、むしろどこにでもいそうな、恵まれた階級の素直な女の子みたいに描いている点が、さすがです。お稽古事を親の期待どおりに素直にこなしているような子の中には、えてして、自分が大人によってどういう目的に利用されようとしているかなんてことには鈍感で、別に悪意もないまま、巨悪の手先になってしまったりする子はいますものね……」

 

以上のような〝創作文学〟をこしらえて、わたしは1970年の4月の初めごろ、康子さんに送ったのです。「こんないい女友達ができたんだから、もうあなたなんか眼中にありませんよ」と言いたげに。

 

美術専攻で、イタリア語が達者で、ラテン語にもギリシャ語にも関心をもっていて、カトリックの洗礼は受けているけれども、自分の頭で考えることを大切にしていて、権威に盲従していない若い女性。……そういう人が実在してたら、すてきだと、思いませんか? 残念ながら、その当時のわたしの周囲に、実在はしなかったんですけどね!