靖国神社問題リンク集第三弾 | MTFのAkemiのblog イタリア児童文学・皆既日食・足摺岬が好き

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私は、イタリア児童文学が大好きで、皆既日食も大好きで、足摺岬も大好きな、団塊の世代に属する元大学教員で、性別はMTFです。季節の話題、お買い物の話題、イタリア語の勉強のしかた、新しく見つけたイタリアの楽しい本の話題などを、気楽に書いていこうと思っています。

靖国神社問題については、私もここ十年あまり社会に向かって発言を続けてきましたが、小泉参拝をめぐる熱い論争が2006年に一段落したあと、この問題があまり論じられなくなっていたあいだに、いつのまにか論点そのものがずらされて、私のような者の議論には最初から耳を傾けない人が多くなっていました。それに気づいたのは、2013年ごろです。

 

第二次安倍内閣が成立して、「今度の任期中には、安倍首相は靖国参拝するか否か」といったことが再びマスコミで話題にされるようになってきたとき、小泉参拝(2001年~2006年)当時までは多様な観点から論じられていたこの問題の論点が、いつのまにかきわめて限定されてしまっていました。

 

「靖国神社はわが国の公的な戦没者追悼の中心的施設だ」という安倍首相流の認識は大前提として受け入れてしまったうえで、「ただ、わが国の場合、そこへ首相が参拝することにつき、横槍を入れる少数の国があるため、外交上はいろいろな配慮が必要となってくる。それにどう対処するのが賢明か?」というふうにしか問題を立てないことが、あたりまえのようになってしまったのです。

 

これでは最初から勝負はついているようなものです。「外交上の配慮の必要性」という議論に対しては、「そんな卑屈な弱腰外交を続けてきたから、日本はナメられる結果になっているんだ。もうこれ以上、一歩も譲れない」といった論調が盛んになることは、目に見えているからです。

 

そんなふうにしか問題を立てない結果、「A級戦犯が合祀されているという点に関して外国は文句を言ってくるんだから、要するに東京裁判史観を認めるか否かが、意見の分かれ目なんだ」というふうに論点が狭められてゆき、「わが国がサンフランシスコ条約11条で東京裁判の判決の忠実な執行を約束してしまっている以上、それを蒸し返す主張を、国内的にはともあれ、対外的に掲げることは少なくとも外交上の得失の観点から、賢明でない」という意見と、「あんなものは事後法による勝者の裁きであって、不当きわまりない。そもそも戦犯はすべて昭和20年代のうちに国会の決議によって名誉回復されているから、『A級戦犯』などという概念そのものがもはや存在しない」という意見との対立が靖国問題のすべてであるかのような受け止め方が、支配的になってしまいました。

 

もちろん、「A級戦犯などというものは、もはや存在しない。みな名誉回復されている」という主張自体、先日もリンクしたとおり、たいへん胡散臭いものですが、

https://matome.naver.jp/odai/2142515062570887401

https://kizitora.jp/archives/netouyo-yasukuni-senpan.html

 

たとえ「A級戦犯存在しない論」の矛盾点は指摘できても、そこだけに論点があるという見方を受け入れてしまえば、それでもう、敵の土俵に乗ったようなものです。

 

そんな論点の立て方自体がおかしいのだという指摘は、2013年末の安倍参拝の直後に、少数の人からなされましたが、

http://analyticalsociaboy.txt-nifty.com/yoakemaeka/2014/01/post-4ba0.html

 

社会の圧倒的多数が、別の論点の立て方そのものを知らなかったという事実は、まさに愕然とすべきことです。安倍参拝に至るまでの数年間、マスコミが意図的にか論点そのものをぼかして、とんちんかんなことしか書かなかったことの責任は重いと言うべきでしょう。

 

実際、安倍参拝への懸念が語られ始めた2013年の夏の時点で、すでにマスコミは安倍政権に対して腰が引けていました。ネトウヨから「サヨク」呼ばわりされる『朝日新聞』でさえそうでした。そのことに対して、あまり名の知られていないブロガーの「なんでやねん五郎」さんは、的確な指摘をしていましたが、

https://blogs.yahoo.co.jp/tubuyaki2594/9158598.html?__ysp=5L2V44Gn44KE44Gt44KT5LqU6YOOIOmdluWbvSDpp5Lph44%3D

この主張に注目してどんどん拡散してくれる人がいなかったのは、まことにわが国のネット社会の不甲斐なさでした。

 

それどころか、「朝日新聞や旧社会党に巣くう一部売国奴が中国にタレこみをして知恵をつけたのが、靖国神社問題の発端だったのだ」などと、鬼の首でも取ったかのように語る言説が、世の中に蔓延していました。また、「三木武夫首相が1975年8月15日の参拝を『私人としての参拝』だなどと言い訳したために、以後、靖国参拝は公人としてか私人としてかなどというつまらぬことにこだわる風潮ができてしまったのであるから、三木武夫の煮え切らない態度こそが、この問題をつくった元凶だ」などという説も、さかんにコピペされて拡散されました。私は前者を「タレこみ売国奴説」、後者を「三木武夫元凶説」と名づけますが、これらの説を受け売りにしているウェブサイトは、まことに多いです。

http://b-co811.hatenablog.com/entry/20131228/p1

http://xianxian8181.blog73.fc2.com/blog-entry-41.html

 

こられに対して、的確な反論を展開しているのは、小菅信子さんを中心にした次の討論ぐらいですね。

https://matome.naver.jp/odai/2138833257598681801

 

そして、安倍参拝が実行されてしまったあとで、「なんでやねん五郎」さんもすでに指摘していた『朝日新聞』の2013年8月10日の論説の問題点を指摘し直し、その論説がむしろ安倍参拝への援護射撃になってしまったのだということを詳細に明らかにしたのは、以下にリンクするブログ「社会科学者の随想」ぐらいなものでした。

http://blog.livedoor.jp/bbgmgt/archives/1000272213.html

 

〔2014年の夏になって内田雅敏という人が『靖国参拝のどこが問題か』(平凡社新書)という本で、安倍参拝より前は「A級戦犯分祀論」にとどまっていたマスコミが、安倍参拝を機に「覚醒」して、靖国問題のより深い本質を突くようになったなどと書いていましたが、

https://www.amazon.co.jp/%E9%9D%96%E5%9B%BD%E5%8F%82%E6%8B%9D%E3%81%AE%E4%BD%95%E3%81%8C%E5%95%8F%E9%A1%8C%E3%81%8B-%E5%B9%B3%E5%87%A1%E7%A4%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%86%85%E7%94%B0-%E9%9B%85%E6%95%8F/dp/4582857469

これはきわめて脳天気。わたしはむしろ逆だと思います。安倍参拝の前からすでに腰砕けになっていたマスコミが、その後も「覚醒」できないまま、近ごろの若者の意識をますます安倍的な思考へと追いやっているというのこそが、事実だと思います。〕

 

そのほか、どちらかといえば保守寄りと思われる人の中に、「靖国神社問題は外交問題ではなく、日本人自身が明治以降の国家神道的な『空気』をどう受け止めて乗り越えるかの問題なのだ」ということを指摘している人もいましたが、

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/38093

http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51882442.html

http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51882516.html

 

その一方で、「松平宮司のA級戦犯合祀から問題がこじれてしまったのだから、それ以前の状態に戻せば、靖国神社を外国も認めてくれるような普通の戦没者追悼施設にすることができ、公人が参拝しても非難されなくて済む施設とすることができるだろう」といった趣旨の、中途半端な主張をする人も多くみられました(その後、このレベルにとどまる主張が、むしろますます増えています)。

http://agora-web.jp/archives/1579133.html

 

こういう主張は、少し軸足を移すだけで、容易に麻生太郎の「靖国神社特殊法人化論」のようなものと親近性を高めてゆくことになりますが、

http://www.aso-taro.jp/lecture/talk/060808.html

 

この「特殊法人にしさえすれば、憲法の政教分離規定にも反することなく、靖国神社を晴れて公的なものに戻すことができる」という主張は、過去の「靖国神社国家護持運動」の帰結としての「靖国神社法案」がなぜ廃案になったかの経緯をきちんと勉強していないことから出てくるもので、まず実現の可能性はありません。当の靖国神社自身が、当施設は神道の祭祀をあくまで守る施設であって、政教分離に妥協した改編案などは断固として拒否するという態度を崩していないからです。

 

「靖国神社法案」は、野党が反対したから廃案になったのではありません。当の靖国神社自身とその支持勢力が、「靖国神社を、神社という名称だけ残して、政教分離に抵触しない戦没者記念堂のようなものに変えるなどとは、もってのほかだ」という態度を明確にして、反対に回ったがゆえに廃案になったのです。

 

そのことを踏まえつつ、何としてでも靖国神社は公的なものであるべきだと主張するならば、行き着くところは、「神道の神社である靖国神社を現状のままで国家護持させるべきだ。この場合の神道というのは、日本人ならだれでも従うべき公的儀礼なのであって、特に宗教などと名指されるべきものではないのだ」という、戦前以来の「神社非宗教論」に立った「国家護持論」にならざるをえません。

 

そして、そのような主張は必然的に、超右翼的な、戦前の日本こそをよしとするようなイデオロギーに結びつかざるを得ないのです。下にリンクする「日本よい国、きよい国。世界に一つの神の国。」というブログをよく読んでごらんください。

https://blogs.yahoo.co.jp/meiniacc/44828204.html?__ysp=6Z2W5Zu956We56S%2BIOWul%2BaVmSDlm73msJHpgZPlvrM%3D

 

2013年ごろからでしょうか。若い学生と話していると、「靖国神社は、戦争で犠牲になられた方を偲ぶための施設ですから、宗教としての神社というのとは区別して考えるべきではありませんか(本来、公的なものではありませんか)?」というようなことを、だれから影響を受けたものか、案外「あたりまえの疑問」という形で提起してくる人が多くなってきました。

 

が、これは、過去の「靖国神社国家護持運動」のころから、何度となく繰り返されては、そのつど矛盾を露呈して、ひっこめざるをえなくなったおなじみの議論なのであって、それを支持する以上は、上のリンクにあるような思想をも支持せざるをえなくなるという考え方なのです。

 

わかったうえで「とことん支持する」という気持ちの人を、私は別に止めはしませんが、「国家護持論」とはそういう思想なのだということは、心に留めておかねばなりません。

 

何よりも、靖国神社をめぐる歴史を正しく知ることが大切です。

そのために、少なくとも下にリンクする『靖国戦後秘史』(特に「第三部戦後の慰霊の行方」)ぐらいは読んでおくべきです。「靖国神社こそが諸外国の無名戦士の墓に相当するものだ」という、安倍首相が2013年に外国まで行ってさかんに宣伝した論理(そして、その秋に米国務長官と国防長官の千鳥ヶ淵献花によって明確に拒絶された論理)が、いったいどこから出てきたものなのか、千鳥ヶ淵戦没者墓苑が構想されたときに、それを晴れて「日本の無名戦士の墓」とすることをわざと妨害したのはどういう勢力だったか、などが、白日の下にさらされています。

https://www.amazon.co.jp/%E9%9D%96%E5%9B%BD%E6%88%A6%E5%BE%8C%E7%A7%98%E5%8F%B2-A%E7%B4%9A%E6%88%A6%E7%8A%AF%E3%82%92%E5%90%88%E7%A5%80%E3%81%97%E3%81%9F%E7%94%B7-%E8%A7%92%E5%B7%9D%E3%82%BD%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%A2%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%AF%8E%E6%97%A5%E6%96%B0%E8%81%9E%E3%80%8C%E9%9D%96%E5%9B%BD%E3%80%8D%E5%8F%96%E6%9D%90%E7%8F%AD/dp/4044058075