毎年、お盆とお正月には、弟夫婦が息子たち二人を連れて、大阪に帰ってくる。
海も山もない大阪に帰ってきたところで、
別段楽しいこともないのではないか?と思うが、
律儀に毎年、せっせと帰って来てくれる。
しかし、今年は長男が高校受験のために、帰って来られない。
お陰で、静かなお盆休みだ。
殊にこの受験生、おむつの頃からずっと見てきた。
今じゃ、ジャイアント馬場のように大きな靴を履き、声変わりなんかしてしまっている。
さしずめ、この子にインディアンの名前をつけるとしたら
「馬場のような足をもつ童顔」
だろうか。。。
この馬場足童顔、呑気と言うのか、屈託がないと言うのか、親に叱られたって、2秒後にはケロケロしている。
小学校一年生の夏休みの宿題の『きょうのけいかくひょう』に
「なにもしない」と、書かれた日がずらっと並んでいた。
また、義妹の言うことには、
「荷物が、机に入んない」と言って、お道具箱から何まで、毎日抱えて学校に通っていたと言う。
参観の日に、義妹が「荷物が入んない」という机を覗くと、持って帰らなければならなプリントやテストが、
ぎゅうぎゅうに詰まっていたらしい。そりゃ荷物も入らんわ。
「だいちゃん、お手紙やテストは、お家にもって帰って、ママに渡さないとダメなんだよ。」と、教えてやらなければならなかったとのことだ。
それから、
「お習字箱を、今日こそは持って帰って、宿題をしなければならない」という日のことだ。
元気にただいまと言った両手には、案の定「お習字箱」は、提げられてはいない。
「アンタ、お習字箱は?。」と義妹が訪ねると、
お習字箱を持っているつもりで、握られた右のこぶしを、自分の鼻先で、ぱあと開いて、
「あれ、なんでないの?!。」と、左手でぱしぱしと ぱあと開いた右手を叩いたという。
馬耳東風、馬の耳に念仏、右から左、
長男の話しをする義妹の口から、幾度となく繰り返された言葉だ。
そんな話しなら、どんどん出てくる。
だいちゃん、真っ直ぐ歩きなさい。
だいちゃん、人の話していることをちゃんと聞きなさい。
だいちゃん、回りのお友だちのすることを、見なさい。
小さな時から、ずっといって聞かせていた。
しかし、彼には彼なりの言い分があり、彼なりの価値判断で(仮に、それが傍目から見てヘンテコでも)、そのように動いてきた。
この子のお陰で、例え小さな子どもであっても、キチンと自我があり、自分の思い通りに動いてはくれないと云うことを学んだ。
それから、自分の狭い枠組みや願望から「子どもは、こう思うはず(べき)」とかっていう、押し付けは、通用しないと云うことを学んだ。
子どもは、一人ひとりちがう。
大人も、一人ひとりちがう。
人間は、一人ひとりちがうのだ。
この子のお陰で、人に対して、良い意味での諦めを覚えた。
そして、人に対して少しばかりの おおらかさを身に付けることができるようになった気がする。
そんなこの子も、来年は高校生。
もう、大阪に帰って来てくれなくなるのかと思うと
ホットする本音と、淋しいと思う本音と、混ぜ混ぜで複雑な気分だ。
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