辛口太郎のレッツぎふ クチコミレポート!! -2ページ目

辛口太郎のレッツぎふ クチコミレポート!!

地域ポータルサイトでの活動の様子、クチコミレポートとその裏側をつづります。YouTube動画紹介、日常ブログ、診断士からの一言、ダイエット・ストーリーなどもたまに^^

今は小さな一歩に過ぎないが、いずれ大きな一歩だったと思える日が来る
-Chikea Ganashiyo

そう信じて今を頑張れば、必ず成果は得られる。いずれ大きな一歩だったと思えるか否かは、今をどう頑張るかにかかっているのだ(・・・当然かな?)


※写真は七五三のお参りで撮影した長女と孫の歩く姿(2012.11.13)


この“語録”を投稿したのは今年の8月29日です。
7~8月の慌ただしい2ヵ月を締めくくるものでした。

「レッツぎふ」に参加してクチコミレポーターとして活動することを決め、
このAmebaブログを同時に書き始めました。
アカウントだけで放置していたfacebookを再開しました。

SNS(Social Network Service:ソーシャル・ネットワーキング・サービス)を中心に、自分自身に新しい動きが生じた時期です。
いまだ手探りの状態は変わっていないと思いますが、そんな私自身の心の内を表す“語録”です。

不安があり、期待があり、自らを励ます気持ちが込められています。

“語録”で使うPhotoはオリジナルと決めてあるので、過去に自分や家族の撮影したものをあれこれ探しました。
今は小さな一歩に過ぎないが、いずれ大きな一歩だったと思える日が来る。

思い浮かぶシーンはあまりにも月並みでした。
う~む、できれば歩んでいる姿がいい!

何気に目を留めた1枚は、娘と孫が仲良く歩く七五三での写真でした。
私の切実な心情にはほんの少し合わないのですが、それでも良いと感じました。

あたかも自分一人が歩んでいるようだが、誰かに手を引かれ、あるいは誰かの手を引くこともあるのだろう。

孫ほどに歩みの小さい者でも、その一歩はやはり着実な一歩なのだ。

別に成果がどのようなものであれ、それはそれでいいのかも知れない・・・
(こうして仲良く歩んでいれば、それだけで十分じゃないの^^;)

Photoを眺めながら、“小さな一歩”にそんな思いを馳せました。
私はゲームが嫌いです。
だからあなたもゲームを嫌いになって下さい!
と言ってはなりません。

“価値観の強要”をしてはならないからです。

しかしそれも一つの価値観であることから、
決して絶対ではない、と言わなくてはなりません。
そこにある “物” は一つでないことくらい私たちは知っています。

とはいえ安易に否定されたくもありません。
少なくとも自分にとっては揺るぎない物事の捉え方であり、
だからこそ「価値観」と呼べるのです。

そこで一計を案じました。
あくまでも“価値観の強要”をしてはならないという前提に立って、
その上で例外となるケースが見当たらないかを考えてみたのです。

矛盾するようですが、やはりいくつかの事柄が思い起こせます。
たとえば親が子に自分の価値観を押しつけることはどうでしょう?
私にはそれが一概に悪いことだとは思えませんでした。

まだ幼く、物事の分別がつかない子に親は教えるべきである。
いえいえ、子がすでに成人していようがいまいが、
自ら思慮し判断できる年頃であろうがなかろうが、
それはお構いなしに、親は子に価値観を強要してよいのかも知れません。
(ときには反対に、子が親に強要するケースもあり得ます)

「父は私のことを理解してくれない、自分のエゴを一方的に押しつける!」
仮に子にそう思われ、強い反発を買ったとしてもです。

夫が妻に、妻が夫に自分の価値観を押しつけるのはどうでしょうか?
それも私には、一概に悪いことだとは思えませんでした。
「私はあくまでも私、だから夫に干渉されたくない!」
仮に妻にそう思われ、夫婦が不仲になったとしてもです。

全てにおいてではありませんが、“価値観の共有”は家族である証の一つです。他人ならば強要もしませんし、できないでしょう。
でも、それが許される相手も存在するのでは?
(相手が最終的に受け入れるかどうかは別問題ですが・・・)

企業や組織などで全員が一丸となって何かに向かう時、その事柄に対する共通の価値観がメンバーに求められます。
でなければ課題への対処、目標の達成がとても困難となるからです。

「強要」は程度の問題に過ぎないとも言えます。
強く諭すだけでならまだしも、半ば強引に相手の意識を変えようと働きかけることがあります。
だから言葉を「共有」に置き換えると、とても優しいイメージになります。

さながらそれは、
私はゲームが嫌いです。
あなたも一緒にゲームを嫌いになりませんか?
と誘うようなものかも知れません。

私たちの住む人間社会は実に様々な価値観がぶつかり、あるいは複雑に交錯し合う社会だと言えるでしょう。

そこにある “物”

様々な価値観があります。

その中身を吟味してみると、当然に様々な捉え方が存在するはずです。
しかし人の数ほど多いかと言えば、決してそうではない気がします。
多様ではありますが、似通った価値観というものが存在するからです。

また価値観には良い・悪い、好ましい・好ましくない、優れた・優れていない、古い・新しい、広い・狭い、大きい・小さい、正しい・正しくない、納得できる・納得できない、といった観点が見受けられます。

その判断は個人の主観に左右されますので、ある人が“好ましい”と感じる価値観を別の人は“好ましくない”と感じるケースは往々にしてあります。

さて30年も夢中になっていたゲームマニアはその価値観を一変させ、にわかにゲーム嫌いに変身しました。
テレビゲームやネットゲームへの依存症にハタと気付き、そこにタバコに通じる中毒性や有害性があると看破したのです。
“正義は我にあり”です。

しかし・・・、私はゲームが嫌いになりました。
だからあなたもゲームを嫌いになって下さい!
と言ってはならないのです。

どれだけそれが良い、好ましい、優れた、新しい、広い、大きな、正しい、納得できる、価値観であったとしても、それすらも所詮は個人の主観に過ぎません。

“魂”の赴くまま、相手を少しでもより良い方向へと導きたい。
そんな崇高な精神も、見方を変えれば(違う価値観の相手から見れば)上から目線の独善に過ぎなかったりします。

私はこう思いこう考えますが、あなたはどうですか?
主張する(叫ぶ)だけなら一向に構わないでしょう。

“価値観の強要”は、してはならない重要な一つだと思います。
明らかに相手の考え方が間違っている時、自分が抱く正しい考え方を相手に理解してもらいたくて諭すことがあります。。
それでも理解してもらえないときには強要するべきではありません。

価値観は人格を形成する大きな要因なので、その否定は最終的に相手を否定することに結び付きかねません。
すでに述べたように、自分が正しいと感じている価値観すら果たして真に正しいとは限らないケースもあり得ます。

ありがちなパターンは自分の価値観を信奉するあまり、同じ価値観を抱けない他人を蔑んだり、憎んだりすることです。

「ところで兄貴、最近どんなゲームをやっているの?」
「ゲーム? そんなものに興じている時間はまったく無いよ;」
私の言葉に末の弟は目を丸くしました。
よもや私の口からそんな言葉が出るとは考えていなかったのでしょう。
ゲームがあれほど好きだった私がなぜ考えを改めたのか簡単に話しました。

「う~ん、まぁそんなに深く考えずに・・・、やりたい時はゲームでも何でもやればいいんじゃないの?、気晴らしで^^;」
かっての私ほどではありませんが、弟もどちらかといえばゲームマニアです。

少し戸惑いながら、そうつぶやいた彼の言葉も一つの価値観です。
しかも納得できるものでした。私は笑顔でうなずきました。

新たな価値観