『時間よ止まれ――75歳の俺』
夕方5時。
俺は鏡の前で髪を整え、少しだけ若く見える角度を探していた。
「よし……まだいける」
そう呟いた瞬間、鏡の中の俺が言った。
「何が?」
「……お前、しゃべるなよ」
今日は久しぶりに友達と居酒屋へ行く日だった。
店に入ると、友達が先に来ていた。
「おう! 遅いぞ!」
「いやいや、俺は時間に正確なんだよ」
「お前、時計を30分遅らせてるだろ」
「……それは老化防止だ。時間を30分若返らせてるんだ」
二人で大笑いした。
テーブルの上には日本酒のとっくりが二本。
俺は杯を持ち上げて、しみじみ言った。
「なあ……時間よ、止まってくれないかな」
友達が真顔で答えた。
「止まったら、日本酒も冷めないけど、俺たちも動けなくなるぞ」
「それは困るな」
しばらくして、店員さんが時計を見ながら言った。
「お客様、そろそろ閉店のお時間です」
俺は立ち上がった。
「えっ、もう?」
友達が笑った。
「時間は止まらないよ」
俺は少し考えてから、にっこり笑った。
「じゃあ……せめて、楽しい時間だけは、ゆっくり進んでくれ」
二人で最後の一杯を飲んだ。
そして帰り道。
夜風に吹かれながら、俺は思った。
――75歳。
昔より時間は速くなった。
でも、不思議なことに、
楽しい時間は、今でもちゃんと青春している。
「時間よ止まれ!」
俺が空に向かって叫ぶと、
後ろから友達の声がした。
「おーい! 信号、赤だぞ!」
……時間は止まらなかった。
俺だけが、ちょっと立ち止まった。
