遠くへ行きたい

朝、目が覚める。

窓の外には、いつもの街がある。
見慣れた建物、いつもの道、いつもの電車。

75歳になった私は、しばらくベッドの中で天井を見つめていた。

「どこか、遠くへ行きたいな……」

別に、今の暮らしが嫌いなわけではない。

ただ、長い人生の中で置いてきたものが、あまりにも多い。

若い頃の恋。
昔の友人。
もう会えなくなった人。
そして、あの頃の自分。

私は台所へ行き、コーヒーを一杯いれた。

そして、古いギターを眺めた。

「そうだ。今日は少し遠くへ行ってみよう」

大きな旅行ではない。

電車に乗って、知らない駅で降りる。
知らない商店街を歩く。
小さな喫茶店に入り、窓際の席でコーヒーを飲む。

それだけでいい。

電車が走り出す。

窓の外の景色が、少しずつ変わっていく。

私は思った。

「遠くへ行きたいというのは、場所を変えたいんじゃない。
もしかすると、自分の中に残っている昔の自分に会いに行きたいんだ」

車窓に映った自分の顔を見る。

そこには、75歳の男がいる。

けれど、その目の奥には、20歳の頃の自分もいる。

恋をして、夢を見て、失敗して、笑って、傷ついて……。

私は小さく笑った。

「お前も、ずいぶん長く頑張ったな」

電車は知らない街へ向かって走っていく。

帰る場所は、ちゃんとある。

だから今日は、少しだけ遠くへ行けばいい。

人生の終着駅を急いで探すのではなく、
まだ見たことのない駅で、一度降りてみる。

そしてまた歩く。

――遠くへ行きたい。

その言葉は、
「消えてしまいたい」という言葉ではなかった。

「もう一度、自分の人生を歩いてみたい」

そんな、小さな願いだった。