通報できなかった男

夕方の東急ストア。

男は買い物かごを片手に、レジへ向かっていた。

そのとき、前を歩いていた若い男が、棚から商品を一つ取り、周囲を見回してからコートのポケットに入れた。

――万引きだ。

男は立ち止まった。

「店員さんに言わなきゃ……」

そう思った。

しかし、その若者の顔をよく見ると、まだ二十歳そこそこだった。

「もし警察に捕まったら……」

学校を退学するかもしれない。

仕事を失うかもしれない。

家族に知られて、人生そのものが変わってしまうかもしれない。

たった一つの商品で――。

男は店員のところへ行きかけた。

しかし、足が止まった。

「犯罪は悪い。でも……この若者の一生まで壊していいのか?」

結局、何も言えなかった。

その夜、男は家に帰ってからも落ち着かなかった。

夕食を食べても、テレビを見ても、頭に浮かぶのはあの若者の後ろ姿だった。

そして、ふと思った。

「俺はあの人を助けたのか?」

しばらく考えて、首を横に振った。

「違う……」

自分が怖かっただけなのかもしれない。

通報する勇気もなかった。

見過ごす勇気もなかった。

ただ、何もしなかった。

翌週。

男はまた東急ストアへ行った。

すると、あの若者がいた。

今度は商品をポケットに入れていなかった。

棚の前で、財布を開いている。

そして、レジへ向かった。

男は胸の中で小さく息を吐いた。

――よかった。

 

しかしその瞬間、若者が振り返った。

目が合った。

若者は一瞬驚いた顔をして、それから小さく頭を下げた。

男も頭を下げた。

二人の間に、言葉はなかった。

その日、男は思った。

人を裁くのは簡単だ。

でも、

人の人生を思いやることも、同じくらい難しい。

そして男は、二度と「あのとき通報しなかった自分」を、正しいとも間違いとも決めつけないことにした。

ただ一つだけ、

「次に同じことが起きたら、逃げずに店員さんに相談しよう」

そう心に決めた。