千葉支部より、「水雷艇 真鶴」の製作、
今回は 水雷艇「眞鶴」をご覧いただきましょう。
「眞鶴」は1934年(昭和9年)に竣工しましたが、あまりに過度な性能を詰め込みすぎたため同年3月、同型艦の「友鶴」が荒天下転覆、100名以上の犠牲者を出す大惨事となりました。
翌1935年(昭和10年)9月には第4艦隊事件が起こり、荒天下の演習で駆逐艦「初雪」、
「夕霧」の艦首切断事故が発生しました。艦首部分に生存者がいたかもしれないのに機密保持の
ため流出した艦首を砲撃で撃沈するという痛ましい事件でした。
1936年(昭和11年)11月には復元性能改善工事が行われて艦容は大幅に変わりましたが、荒川氏は竣工時で模型を製作しています。
また、荒川氏は 「一等駆逐艦「磯波」模型の研究と製作」の冒頭で舞鶴要港工作部見学記を載せています。
ここで建造中の一等駆逐艦「夕暮」の艤装工事中を見ることが出来た。この工作部は駆逐艦専門で、多数の艦が進水している。「夕暮」の隣には往事遭難した「友鶴」の哀れな姿が横付けされて居り、内部はすっかり錆びて改修中でした、と記しています。実際に見ての生々しい描写ですが、さらに船体鉄板は今ではリベットに代わり電気溶接で接合されている。などと機密事項では?と心配してしまうことも書かれています。
「眞鶴」の模型についてですが、「軍艦模型の作り方」ノートに書かれています。
説明では全長99.9㎝のブリキ製の大きなものですが、これを25.7㎝のソリッドで作りました。
実艦は77.4mですので縮尺は1/301となります。
図面を見ながら作成してゆきます。原稿にはほとんど絵がなく説明文のみでうまく作れるのだろうかと心配になります。側面図と平面図だけではなかなか立体的な形はつかみにくいものです。
とりあえず完成にこぎつけました。こうしてみるとトップヘビーで転覆するのも無理はないと思えます。
しかし、乗組員はたまったものではありません。製作中に色々考えさせられる模型でした。
戦後、昭和30年代初めころの「入沢商店総合カタログ」にメーカー不明の「眞鶴」の写真が載っています。やはり作者は荒川氏の模型を見たことがあったのでしょうか。年代的に、昭和10年頃10代であれば昭和30年代には30代となり、模型製作にもかかわる年代となります。戦前のこのような蓄積が戦後の艦船模型ブームの原動力になったのかもしれません。この辺りはもっと深く調べてみる必要がありそうです。
次回は「軍艦模型の作り方」ノートから、「簡略軽巡洋艦の作り方」です。
「水雷艇 真鶴」といえば、コレクターの方から次の画像をいただいた、
木製キットと思われる「戦艦武蔵」と「水雷艇 真鶴」の箱、
さて、このメーカーは? <続く>