歌手になれと言われたが、 | 「模型探偵団」明石小五郎の昭和のプラモデル

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昭和のプラモデルが好きなタダのジジイです、上から目線で書いてます、日本初のプラモデルメーカー、㈱日本プラスチックなど、真実のプラモデルの歴史を書いてます。

子供の頃、NHKの全国放送で「声くらべ腕くらべ子供音楽会」というラジオ番組があった、

 

小学6年生の時のある日、音楽の先生から、「今度NHKで音楽の大会があるので出なさい」と言われた、それが、「声くらべ腕くらべ子供音楽会」という番組であった、

それまで自分として特に歌が上手いと思ったことはなかったが、先生が言うことなのでそれに従った、ただ、音楽の時間の時によく独唱をさせられたが、僕が歌うと教室内が静まりかえったことは事実であった、僕がボーイソプラノだったのでそれが珍しいのだろう、ということくらいにしか思っていなかった、

 

予選会の前までに数日間その音楽の先生の指導を受け、選んだ曲が「野ばら」であった、

特に合格の鐘を鳴らしてやろうなどという気持ちはさらさらなかった、

 

予選会の場所は中学校の体育館、もうハッキリした記憶はないが100名以上は各小中学校から予選会に参加にきていたと記憶している、

各自が一人づつ歌を歌い、楽器を弾いて審査を受けた、

その予選会は午前の10時くらいから夕方の4時くらいまでかかったような記憶がある、

結局は本番に出る予選の勝ち抜者が決定したのは5時を過ぎていたと記憶している、

 

選ばれたのは僕を含めて8人くらいだった、と記憶している、

結果は、合格の鐘を鳴らしたのは僕一人であった、

そしてそれは全国にラジオで放送された、

まあ、それからが大変?であった、

一躍僕は田舎の名士?となり悪いことができなくなった、皆が僕の顔を知ることとなった、

 

「歌手になれ」とよく言われたが、そのような気はさらさらなかった、

そもそも僕自身が歌が上手いなどと思ってなく、歌手になろうなどもまったく思ってなく、またそれで将来食っていけるなど思ってもいなかった、

ましてや、当時僕はボーイ・ソプラノ、当時は演歌調全盛時代、通用するはずもなく声変わりするのも時間の問題であった、

 

それよりも当時は、今井科学のようなプラ模型メーカーで働きたいと考えていた、

まあ、単純な発想である、思いっきりプラモデルで遊べるから、という単純な考えであった、

ただ、高校生になった頃にはその今井科学のことはすっかり頭の中からは消えていた、

結果的には先生に勧められた銀行に就職することになった、

 

まあ、気分だけでも今井科学の社員になったつもりで社員手帳は持っている(笑)、

 

 

仮に例えば今井科学に就職したとしよう、その頃は今井科学は絶頂の時代、

その絶頂の時代に入って、その1年半後には失業ということになっていた、

もちろん、今の僕はなかった、どのような僕になっていただろうか、

後になっていろいろと妄想するのも面白い。