マルサン商店がノーチラス号他3点を発売した時に、それが日本初ではないことは業界あたりではもちろん知っていた、
それは当然のことだろう、
当時は日本プラスチックの濱田さんの兄の亨さんがノーチラス号の、そして和工樹脂のストウさんがダットサン1000のプラモの売り込みに問屋、模型店を回っていたからである、
そして実際に取り扱った問屋、模型店などもある、
その取り扱った問屋の一つが「三ツ星商店」であったことも紹介した、
当然のことながら他にも取り扱った問屋、模型店も多くあっただろう、
そのマルサン商店より前にプラモを発売したメーカーがあることを知っていたことを証明できる資料が次の日本模型新聞の記事である、
(昭和34年12月25日 日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)
マルサンを始め和工、その他各社から各種のプラソリッドを発売されたが、とある、
広告以外で日本模型新聞の記事で和工という名が出てきたのはこの記事が最初で最後である、
その他各社から各種のプラソリッド、とある、具体的なメーカー名は書かれていないが、日本プラスチック、が含まれているのは当然のことだろう、
なぜなら、当時はすでに火星人さんも社友として日本模型新聞に在籍していたから、
この頃には火星人さんも日本模型新聞に記事を書いているが、この記事は火星人さんが書いたものではない、なぜなら、この記事は火星人さんの文体ではない、
おそらく、日本模型新聞の当時の田村社長ではないかと推測される。
火星人さんが社友として日本模型新聞に記事を書き始めたのが昭和34年の夏頃であった、
なぜ社友として記事を書き始めたのかというと、
火星模型店を大阪十三に開業したのが昭和32年、
その頃から日本模型新聞社に記事をよく投稿していたという、
その火星人さんの記事が当時の田村社長に気に入られ社友として記事を書いてみないか、と打診され書き始めたのだという、
その火星人さんの過激な記事、そう、僕とまったく同じ、それが気に入られたのだろう(笑)、
火星人さんは好きなように思いっきり過激にエッチなことを書いたという、
まだ紹介はしていないが、たしかにエッチなことも書いている、
そんなことも田村社長は修正することもなく、火星人さんの書いたものをそのまま記事にしてくれたという、
だから、「マブチモーターに告ぐ!!」とか、「プラモデルを追放しよう」などと、今そんなことを書くと業界から追放されるようなことも模型新聞に載せることができた、
もし、昭和33年には火星人さんが日本模型新聞社に社友として記事を書いていたなら、
はたしてどうなっていただろう、
そう、あのマルサン商店のノーチラス号の広告などを見たら、
怒り狂っていたかもしれない、すぐに記事として「日本初のプラスチックモデルはマルサンではない」と書いたかもしれない、日本のプラモデルの歴史は変わっていたかもしれない、
火星人さんがマルサンの横暴なやり方に我慢できずに、「日本初のプラモデルはマルサンではなく、日本プラスチックである」と日本模型新聞に反論記事を書いたのが昭和36年10月のことであった、
しかし、時すでに遅く業界としては日本初のプラモデルはマルサン商店である、ということがすっかり定着していたのであった。