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アラ還 ~ 毎日が日曜日

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初めて無限に出会ったのは小学生のときで、分数を小数で表す時である。1/3=0.333…と3が無限に続くというときである。高校時代にも出会った。数学の授業で、先生から教えていただいた「ものの個数が無限個になると、それらは同じと判断するが、無限個の中にも大きい無限個と小さい無限個があるのではないかと数学者カントールは考えた」という話を聞いた時である。

「無限」の世界は、個数・大きさ・長さなどいろいろな場面に現れるが、ここでは個数に焦点を当てて考えてみる。

正の数の無限個の足し算 1+1/2+1/4+1/8+1/16+…を考える。

長さ2の線分ABがある。ABの中点をP1、次に線分P1Bの中点をP2とし、次に線分P3Bの中点をP4とする。以下同様にして無限にP5、P6 、…をとると、

線分ABの長さは2だから、

2=AP1+P1P2+P2P3+P3P4+P4P5+P5P6 +…

即ち、2=1+1/2+1/4+1/8+1/16+… である。

正の数を無限個加えると限りなく大きくなるから、答は無限大と思いがちであるが、そうではないのだ。「無限」の世界の神秘その1である。

自然数の集合(集まり)を、A={1、2,3,4,5,6、…}とし、Aの一つとばしの偶数の集合を、B={2,4,6,8,10、…}とする。集合AとBの個数は、どちらが多いかを考える。

成長した杉の木がたくさんある森林において、杉の木の本数が知りたい時、用意した紐を1本づつ杉の木に結び付けていくと、用意した紐が10000本であり、紐が余った時、余った紐の本数だけ杉の木が少ないことが分かる。この考え方で、集合Aと集合Bの要素を、1-2、2-4、3-6、4-8

…のように一つづつ結び付けていくと、どちらの集合からも余り(ペアの相手が無い)が無いことが分かる。よって、集合BはAの一部分であるから、部分は全体より少ないと思いがちだが、二つの集合AとBの個数は同じであることが分かる。「無限」の世界の神秘その2である。

自然数の集合を、A={1、2,3,4,5,6、…}とし、0より大きくて1より小さい実数の集合をXとする。集合Xの個数が自然数の個数と同じであるとすると、Xの要素に、X1、X2、X3、X4 …と番号を付けることができるはずである。

今、X1=0.1234111…   X2=0.1234211…   X3=0.1234311…  X4=0.1234411…

 としたとき、アンダーラインを引いた緑の数1,2,3,4、…に着目して、その数が偶数ならば1、奇数ならば2というようにして、得られた

y=0.2121…という数は、0<y<1 だからXの要素であるが、小数第1位が異なるからy≠X1、小数第2位が異なるからy≠X2、小数第3位が異なるからy≠X3、小数第4位が異なるからy≠X4 …

よってyはXの要素ではないことになる。これは矛盾である。よって集合Xの個数は、集合Aの個数と同じではなく、集合Xの個数の方が多いことが分かるのである。「無限」の世界の神秘その3である。


「無限」の世界は、このように私たちの前にちらほら顔を出すが、全貌は現さず、いつまでもつかみどころが無いものを残して、隠れてしまうのである。正体を暴こうとすると、「無限」という怪物と戦うことになる。


「0」は不思議な数である。10、100、1000、……と、0が右側に付け加わるだけでその数は、10倍、100倍、1000倍……と無限に大きくなっていく。また、「0」は他の数に加えても、他の数から引いても、その数に何の変化も与えない。しかし、他の数に「0」をかけると「0」となり、他の数を「0」で割ることはできない。1から9までの数には無い性質を持つ「0」について考えてみる。

例えば、プロ野球の交流戦において、内海投手がロッテを完封したとき、「失点が0(ゼロ)であった」という。

担任の先生による長女の進路指導において、「模擬試験等諸資料から見て、滑り止めとして受ける○○大学の合格可能性は100%、言い換えると不合格となる可能性は0(零)%だと思います。大丈夫です。」と言われた。不合格となる可能性は、絶対的な無ではないのだ。含みをもっているのである。

このように、日本人は、「0」を、場合に応じて、「ゼロ」と「零」の二通りのいい方をして見妙に使い分けているのである。

「ゼロ」は英語であり、数字の「0」で、皆無を意味する。語源は、ヒンズー語で「からっぽ」を意味するスーニャである。これが、8世紀頃にアラビアに伝わり、アラビア語で「からっぽ」を意味するアッシフルas-sifr となった。12世紀にアラビアのフワーリズミーの算術書がラテン語に翻訳されて、ゼロはヨーロッパへ広がっていった。イタリアでは、これがゼフィラム zephirum と音訳され、更にはゼネロzenero そして、ゼロzeroへと変わったのである。

「零」は、日本語であり、インドで生まれた「ゼロ」という概念が中国に伝わり、更に日本に伝わったものである。

我々は、二千十三と読む数を2013と書く。これはインド式記数法であり、それぞれの数字は書かれた場所によって別々の数を表しているのである。この記数法は位取り記数法とも言われる。位取り記数法は、まさに算盤を用いて数を表す方法と同じ原理であるが、あらゆる数を書き表すためには、1から9までの9個の数字だけではできないのである。例えば、十八、百八、百八十を区別するためには、18、108、180のように、「0」という数字が必要なのである。この「0」を書く位は、算盤でいえば、玉を動かさないで下ろしたままにしておく桁に当たるから、位取り記数法は数をそろばんで表したものと同型であるといえるのだ。その算盤はヨーロッパで広く用いられていたのだが、15~16世紀頃から姿を消し始めたのである。なぜかというと、今日われわれが使っている筆算が普及し始めたからである。

ピタゴラスなどによってギリシャでは数学が発展したが、「0」は無かった。「何もない」、「無」ということを表す発想は西洋思想の下では生まれなかったのであろう。ところが、仏教、インド哲学の下で発見された「0」は、数字の「0」と、記号の「0」の二つの働きがあるから面白い。「0」の無い数学は想像できない!!



何気なく本棚を眺めた。川久保勝夫著の「数学のしくみ」が目に入り、手に取った。本を開こうとすると、しおりが挟まれたページが開いた。「ラッセルのパラドックス」についての記述があった。これをきっかけにして、今回のテーマをパラドックスに決めた。

パラドックスとは、ギリシャ語で、「矛盾」、「逆説」を意味する言葉であり、数学・哲学の分野では、「一見間違っているようだが、正しい説」、「一見正しそうだが、間違っている説」、「それ自体が矛盾している説」等に用いられる。

真っ先に浮かぶパラドックスは、「アキレスと亀」である。
「俊足の代表であるアキレスと鈍足の代表である亀の競争において、亀はアキレスの50m前のA地点にいて、同時にスタートする。アキレスがA地点に達した時、亀はその時間分走っているから、亀はA地点より前方のB地点にいる。この論法を続けるとアキレスはどんなに全力で走っても亀に追いつけない。」

この話は、BC5世紀頃の天才的哲学者ゼノンが主張したゼノンのパラドックスとして有名である。では、この話のどこに問題があるのだろうか?

アキレスと亀の速さをそれぞれ10m毎秒、0.1m毎秒とし、t秒後

に追いつくとすると

50+0.1t=10t よりt=500/99 ≒5.5

よって、5.5秒後に追いつく

つまり、アキレスが亀に追いつくまではこの論法が成り立つとい

う時間を無視しているところに問題があるのである。

続いて頭に浮かぶパラドックスは「クレタ人はウソつきであるとクレタ人がいった」という古代ギリシャから受け伝えられたウソつきパラドックスといわれるものである。同様のパラドックスである「私はウソをついている」について考えてみる。

・私がウソをついているとすると、「私はウソをついている」が

 ウソになるから、本当のことを言っていることになり、

 「私はウソをついている」と矛盾する。

・私が本当のことを言っているとすると、「私はウソをついてい 

 る」が本当であるから、やはり矛盾する。

 どちらにしても矛盾するのである。つまり「私はウソをついてい

 る」という説自体が矛盾しているのである。

説も証明も、理解しようとすると頭が痛くなる。もっと頭が痛くなるパラドックスがある。

「自分自身を要素として含まない集合をA、自分自身を要素として含む集合をBとする。Aすべての集合をRとする。Rは集合だから、A、Bいずれかになるはずだが、どちらを仮定しても矛盾する」というラッセルが唱えたパラドックスである。(証明は次の機会にする)

パラドックスは、知的遊戯にすぎないという人もいるが、そうでもないのである。ラッセルのパラドックスは、数学界にパニックを起こしたが、数学の根本を見直すきっかけになったのである。