自分という物体 9 ポップな遺骨 | もしも~し、お寺ですョ

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妙栄寺 公式ブログ

いつか私が死んだら、、、

私は、、、
「遺体」という
物体になる。

これを物体と呼ぶと
大変、語弊があるけれど、
動かなくなってしまい、
意志が無くなり、、、
やがて腐敗して行く身体を
「この人は人間だ」と、
ずっと寝かせておいたら
それこそ残酷な話です。

私は、14年前に、
両親を看取りました。
そのとき、、、
ずいぶんと、時間をかけて、
そのご遺体に語りかけた。

寝ているようだった。
しかし、やはり、、、
身体はとても冷たかった。

そこに寝ておられるのは、
私の父や母ではあるが、、、

何だろう、、、???
心が離れてしまったのか?
語りかけても通じない。

でも、どこからか、
声は聞こえて来た。

身体を離れた心は、
所謂「たましい‼️」であり
その「たましい」は、、、
念じると伝わって来る‼️

そのように感じました。


だ・か・ら、、、
私も死んでしまったら、
この身体は、、、
火葬場に連れて行ってもらい
火葬をして、白い骨となる。

現代の技術からすれば、
火葬をして、完全燃焼して、
全てを「煙」にする事も
可能なはずですけど、、、
今の世相では「遺骨」を
遺すようになっている。

私の父母も、、、
そのようにご遺骨となり、
私は、その遺骨を抱えた。

とても重かった。
遺骨を抱えて私が歩くと、
腕の中で骨瓶のフタが、
ぶつかる音がした、、。

それはまるで、、、
父や母が語っているようで
その音がとても愛しいと
感じました、、。


身体は物体である。

身体は、いつか、、、
滅んで行くものです。

だから、人生において
欲望に執着することは、
実に愚かな事なのだと思う。

いくら食べたって、
いくら飲んだって、
いくら稼いだって、
いくら大きな家だって、
いくら高級な物だって、
いくら美女だからって、

必ず、壊れて
行くものだ‼️


これは事実です。


そして、それを知った上で
そのように、、、
人生に起こる欲望を
否定しておいた上でね、、、

遺骨は、
愛しい‼️


究極の矛盾!


私は両親の遺骨を
大切にしたいと思う。
 

お分かりでしょうか?
これは精神論を言っています。

人間の肉体を象徴とした
現実生活の欲望を、、、
仏教は否定する訳です‼️

だからその立場からは
ご遺骨に対しても
執着などはありません。

それならば、、、
散骨だって、いい!
樹木葬だって、
海洋葬だって、
宇宙葬だって、いいわい!

だけど、ね、、、
ご遺骨を抱いた時の
その重さであったり、、、
遺骨の綺麗な白さだとか
しっかりと残った骨の姿を
じっと見ていた時、
心が温かくなった、、、。

姿は変わっても
父の存在、母の存在が、、

そこに「ある‼️」
という事実!!!


この事実だけは、
人類80億人いるけれど
全員が認めざるを得ない
本当の事実なわけです!

私の父母のご遺骨は
今でもここにおられる‼️

だから、お骨を遺すことは
実に尊い事だと思います‼️



いつか自分が、、、
遺骨となったら、、、
私は子供たちの前で
その存在をアピールする‼️


私はここにもいるよ‼️
だから、安心してね‼️😃


そ、そ、そんな、
ポップな遺骨に
なれたら、、、、

いいな〜‼️


( ̄∀ ̄)