想像がモノとして完結するから、自分なんかはそれに触れることができるんだけど、その形にでしかなくなったモノに無責任さを感じさせられました。

今、美術手帖の最近のヤツをパラパラ読んでてあまりにイライラして。嫉妬とも違う。

そもそも紙面上の構成がいらつかせるのか、作品の横に作者の写真なんかが載っている。

まるでファッション雑誌で街中の人間の写真を見せられているようなのです。


芸術に限って、その作品がその人でなければならないということはまったくない。

見たいのは作品でもお前の顔でも解説でもなくて、過程なのだし。(こと自分に限っては)

想像は具現化するものではないはずである。ここでいう具現は完結に値するのかな。


本に登場した彼らは同世代から30くらいの新世代なんていわれる人達だ。

14歳の林俊作 なんかもいる。(この子のは真剣じゃないからok。)


例の新世代は自分なんかと似たような事を思考していて、そんなんで作品にして完結させるからイライラするわけだ。


芸術は理解できたら科学と同じことでしかない。

社会や政治批判、あんたらの精神世界なんかの表現がしたい(もしくは反動)なら、うんざりだ。

そんな方向性で作品作るなら、会社員の労働デモとなんら変わりない。


「残念ながら、その思想は俺なんかにも理解されていて、とても共感なんてできないほど組み立てがなってなくて結局、結果も何も残さない諦めで完結した作品」なわけです。


芸術は思想ではないから、評価されたのは、芸術ではなくて、もしかしたら作品の横に載っていた顔の写真や雰囲気や技術や解説かもしれないわけです。







ff


今日はリニューアルしたicc に行ってきた。


方針や方向性はおそらく変わっていってしまっているというか、流行りのオープンなんて言葉が建物のいたるところに見られた。

nttの出資のもと無料開放の施設として意義のある活動を。以前のインデペンデント感は目指すところではないのだろうけど、ボランティア的の表面性ばかりが浮き彫りになっている他施設のようにはなってほしくないのが皆の願うところだ。


今日の目的は、


北野宏明 (情報処理推進機構 未踏ソフトウェア創造事業プロジェクトマネージャー)
茂木健一郎 (ソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャー,脳科学者)
遠藤拓己(《Project Phonethica Installation "Rondo"》出品作家)
徳井直生 (《Project Phonethica Installation "Rondo"》出品作家)
永野哲久(《Monalisa: 音の影》出品作家)
城一裕 (《Monalisa: 音の影》出品作家)
ドミニク・チェン(ICC研究員)

が参加したシンポジウム。


開始時間の16時にギリギリ間に合い、会場にはいると円形のステージを囲む形で観覧車席が設けられている。


一番前の席が空いていたため、そこに座るとシンポジウムはすぐにはじまった。

興味はドミニク・チェンと徳井直生。(ドミニク・チェンはヤバイicc研究員)

城さんという人がサインウェーブオーケストラのメンバーということで、これまた興味をそそる。


要はなに話してるかっていうと、それぞれ開発中ソフトウェアの話。


とりあえず大雑把にmonalisa 。


簡単にいうと、画像を音に、音を画像に変換できるプラグイン。簡単にいったがそれ以下でもそれ以上でもない。
皆が持っている写真をpcに取り込んでそれを素材に音ができるエキサイティングな変換ツール。

人間は視覚的イメージで音楽を想像したりすることもあるが、これはそうゆう類の考え方ではなくて、もっと技術的。
ビット変換なので、有機的なものではない音が発せられること多いらしい。
例えば同じ場所の滝の画像があったとしても光や色の微小な違いが生じるので、変換した際の音は違う。
精巧なコピーですらビット処理ならば結果は若干変わってくるだろう。


永野哲久氏が開発中に知り合いにアイディアの相談したところ、「photoshopが音楽作成ツールになるね」なんてことを言われたようだ。


変換作業は一聴すると、ランダムのように感じるが、やはり類似しているビットの羅列でできた画像は同じではなくても似たところがあるらしい。
1000回も変換しているとその類似性はわかってくるらしい。

フリーで配布しているので、興味をもったらダウンロードしてみればいいのだが、残念ながらmac os10.3とhigherのみの対応である。


自分はxpなので、簡単には使用することができなそうだ。(dos vでmac osを稼動させることも可能だと書いてあった本があったが、os自体嫌いなのだからそこまでしないだろう)


で


もう一つ。
phonethica system 。


遠藤拓己と徳井直生の作品。このシステムはおそらく彼らのなかでやりたいことの10%もまだ完成していない状態で本人達が自らの技術力と既存ネットワークの限界を感じていたのが逆の将来性を感じた。


これは説明に誤解を孕む可能性があるソフトなのでコピペします。


Phonethica Systemは,世界のあらゆる言語の間を飛び越え,音声的に近似の言葉を探し出します.探し出された言葉は,同時にそれぞれの背景情報と結びつけられ,人々は音声の偶然の一致をきっかけに,これまで知らなかった様々な情報と接することができます.

たとえば,日本語の「平和」という単語を例にすると,オランダ語で“heimwee”(ヘイムワ)があり,「ホームシック・郷愁」という意味となります.さらに,英語の“haywire”(ヘイワイア)は「混乱した」という意味です. 作者である遠藤と徳井は,2005年現在で5000種とも6000種ともいわれる地球上の言語の50%から90%が,今世紀中にも消滅するという観測に注目し,言語の音声的な特質を媒介にして,世界の多様性を探ることを試みています.


うーん。わかりやすいようなそうでないような。


本人達は地球上の文化の多様性が失われていることの危険性を根底においてこのシステムを開発しているようです。
先に書いたネットワークの限界というのは、主にインターネットの事で、単純に6000種類存在する言語を調べることができないのです。それに発音トーンなどの解説がなされている辞書のようなものは10国も存在しないそうです。


正直今の環境では本人達の想像するシステムをつくることは難しいようです。


自分はこのソフトの説明を聞いたとき、矛盾点を感じました。
例えばシステムが完璧にできあがり、6000種の言語を持つそれぞれに人種にこのシステムが行き渡ったとして、世界の多様性を知ることにはなるでしょう。
ただ、知ることは失うことでもあります。(吸収といえば響きはいいが、そんないいもんにも思えないので)
他の文化を知ったとき、人は無意識に類似してきてしまうものです。もちろん受け入れられない文化もありますが、一方がその文化を知ることで消滅させることも可能な小さい文化もあります。

知ることで類似してくる。


流行りのグローバルコミュニケーションは、互いの文化に触れているようで、オリジナル文化の損失でしかないのです。一文化である音楽がそうであるように。
もちろん音楽同様、新しいものができたりするとおもいますが、音楽ほど安易なものになってほしくはないものです。


皆そうだと思うのだけれど、新しい文化に触れることは刺激的なことです。新しい人でさえそうなのですから。


インターネットによる情報に均一化は、異質な人間を少なくしています。
情報の捉え方が変わってきてるんですね。
簡単にいうと情報を自分の中に溜め込むのではなく、ネットワーク上に置いてあるものだという認識がでてきているので、個人が持つ情報の価値がなくなったわけです。
高校の頃はcdのライナーでも見ない限りアーティストの事などわからなかったわけですから、もう買うしかないわけです。(音楽だけの狭い話ですが・・・)
音楽が好きなおっさんの話を聞いているとやはり記憶のなかにしっかりあるからスラスラ話しだすわけですね。
ここのブログでいう湯島さんがそうであるように・・・。

自分はそうところに憧れているので、個人のもつ情報に価値がない現在でも溜め込みたいという衝動があるわけです。


マシンによるアーカイビィングは無意味だと以前i podかなんかの記事を書いたときにいいまくったわけですが、個人によるアーカイビィングはそれぞれのフィルターと通すことになるので、違うものになるんですね。
まー、一般個人のもつ情報が金にならない時代だということは重々承知してますが。

「これはこうらしいぜ」なんて話が、そいつのフィルターを通ってないときなんかは最悪につまらない話になってしまうのは皆さん承知のように。
自分はこうゆうつまらない話をさけるがゆえに、こんな偏屈で文句しか言わないフィルターを持つようになったのだとおもうし、そのフィルターを一緒に作ったのは、岩手の蔵の住人であることも知っている。
なんなら二人でフィルターバンク のような極悪エフェクターになりたいものだ。(ん、中原昌也 みたくはなりたくないぞ・・・、菊池成孔 になるのだ。なんの話だ。)






ff

今日(正確には昨日の深夜だろうか)、精神と身体のバランスが大きくズレているのを感じている。

3年前にも経験している事なので、免疫はあったがあまりにも唐突にそれはやってきたので、どう接していいかわからなかった。

自分は3年間なんらかのシステムの上で日常を過ごしていたので、楽ができていたことが改めてわかった。ストレスがないのもそのせいだ。


およそ感覚的と呼ばれる脳を勝手に制圧していたということに気が付けないでいたというか、ストレスや不安に繋がることを思いのほか知らされた時期があったので自然と精神が拒否していたのだとおもう。

3年前のそれは音楽によるものだということはわかったし、別にいまでも音楽に触れる際は感覚的だとおもっていた。

ん、音楽によるものというか、音楽に触れているときにやってくるという感じか。

なにいっているかわからないし、おそらく繰り返し同じことを書いたが、直すことも面倒なのでこのまま文章をすすめよう。


今は自己感覚から遠ざかったところで、観察、考察することに自分の感覚をおいている。

使う精神がまったく別なのだ。

そしてそのほうが向いていることも知っている。人の感覚に外から触れているほうが。


ただ一人に人間と一冊の本によってそうもいかなくなった。

それが昨日の夜のことだ。


とてもじゃないが今はバラバラだ。

システム(こうゆうとなんか違う感じがするけど)上の日常は簡単ですぐに慣れるし、日々の時間を割いている仕事をしてるぶんにはもってこいだ。


3年前と違うのはバランスがとれないということが、不安に繋がっていないところだ。

ただシステム上でうまくいかないだけで、いまのほうが人間的には健康的だ。


いまドッと疲れている。

感覚でシステムに向かうのはこんなに難しいものか。


今日は一日中、人と話さなかった。どうにか生返事だけは返せたのだけれど。

身体が勝手に動いていた。(帰りに「鈴木君今日はありがとう」なんていわれたところをみると、どうやら仕事はしていたようだ)

あまりのも突然だったのですこし落ち着かなければいけない。


今日一瞬だけ、システムに帰れた瞬間があった。

川村美術館でパウル・クレー展 をやっているのを知った瞬間だ。

救われたし、感極まった。

あまりにタイミングが良過ぎたし、これはもうクレーの作品にはずっと世話になるのだと思った。


家に着くと実家に帰った友人がいた。今日くると言っていたがすっかり忘れていただけに、不思議だった。

その後もう一人来た。


こうゆうものなのだろうか・・・・。


ff

ここを見ている人は知っている限り、古い友人や知り合い。物事を見透かす本来の能力を持った人ばかりなので、あまり適当な事は書けなくなっているにも関わらず、本来感じていないようなことを書いてしまうのです。文字にした瞬間は感じているのです。

もし自分の発言を記憶できていたら(皆さんはどうなのでしょう?、自分の場合、自分の発言など3分もしないうちにくつがえってしまうのですが。だから場合によっては嘘ともおもっていないんです。時間経過の問題ですから)、とてもこんなもの書けないのです。

「言ってたことが違うじゃないか」なんて捉えないで、「そう変わったか」なんて捉えてもらえると結構なのですが、捉えることをしないことが一番健康的です。(なんせ、会話の始まりを終わりで矛盾が生じてばかりいるのですから。)


今日は最近欲しいものリストno1のソファを見に横浜まで出かけました。(数々のレコードは欲しいものリストには含まれません、アレは栄養みたいなものなので。ちなみにレコード探しは修行と同意義)

数々のソファーに座り、しっくり来たものもあったんですが、受注生産の為3ヶ月かかるとの事。3ヶ月もして届く頃には違うソファーが家に鎮座しているのは間違いないのです。

欲しいものは欲しいときに。自分はわりと甘くそだてられた現代っ子なのであるとともに、中学の頃からバイトをして欲しいcdや服を買っていたくらいモノに執着が強いのです。ただ欲しいもんなんて世の中あまりないので、似たようなメディア、媒体が数を増やすばかりで、クソな浪費家なんかとは類が違います。

これを見ているであろう姉が「ソファーはいいものを」なんてアドバイスをするから、下手なもんは買えないわけです。負けた気がするから笑。


結局横浜で見つけた出荷に異常な時間がかかるソファーはその現実により、まったくいらなくなり、中華街で中国骨董をみた後、女性に人気と書かれたカメゼリーという美味くもないものを食い帰る。


一日外に出るといろんな音が聴こえて(聞こえて)きます。その音を気嫌う人は多いでしょうが、自らが同じ音を発していることに気がつける人はその半分くらいでしょうか。ヘッドホンを付けていても外部の音を感じてしまうのは、結局意外性のなさの中を歩いているからで、視覚や感覚で伝わってきてしまうくらいその辺で同じことがくりかえされているんです。もちろん理解しがたいむずかしい表情のまま歩いている人もいますが。

自分が男だからという理由で男群が嫌いです。そんな自分が嫌う男群に感化された女なんて目も当てられない。

少なくても日本の9.9割の男群の偶像に日々迷惑しているのです。偶像化してしまっている女の8割も同様に。

簡単に9.9割の男がいなくなればいいのにということではなくて、男偶像を組み上げようとすることだけをやめていただければ、いいのです。組み上げようとすることを除けば、もちろん自分も例外なく9.9割の男群なのです。


さっき人に薦められたある女性作家のほんを100ページほど読みました。いつ依頼だろう物語を読むなんて。(ん・・、最悪なことに大槻ケンヂ以来ではないだろうか・・・・)ノンフィクションか情報誌、資料しか読まないから。


はじめものすごく読み薦めるのが大変だった。認識する場所がまったく違うということに気がついてからも、そんな感覚をもつことが滅多にないので慣れるのに時間がかかるのがわかったがつまらない(比喩としてね)映画のようにボーとみるようにすればいいのだということに気がつき、そこからはすんなり文字が入ってきた。

こうゆう本もあるんだ、なんて本来の作家の作業に気がつかされ、「ストーリーを読まないなんてもったいない」という言葉をいままで3人に浴びせられたことを思い出した。


自分はどの分野でも(芸術でも音楽でも本でも)作品より人に興味がいくし、その人をみて作品を判断する。

だからどうでもいい人間がつくった奇跡的にすごいモノにも気がつけないでいるし、それでいいと思っている。

なんせ興味ないんだから。


さっき結局ネットでまだ座ってもいないソファーを買いました。

ネットでモノを買う行為は失敗に繋がるようですが、その類での失敗は今までありません。

表記すべきことは書いてあるし、表記にあやまりがあればなんとでもすることができるし、そもそも触れた瞬間にほしくなったモノなど、いままでなくて見れば大体想像がつく。


ネットワークも見る目があれば、いろいろなものや人と繋がるってことです。










rrr

職場の人がニルヴァーナとプライマルスクリームが好きだと言った。

(英語圏の仏教徒の人間には、完全なる魂の消滅と魂の叫びが好きだというふうに聞こえるのだろうか。ということを考えたが発言しなかった。)

こうゆうくだらないことを音楽に持ち込む自分は無意味だ。


1917年。フロイトが精神的外傷を「トラウマ」(元はギリシャ語で単に傷という意味)という意味で発表したそうです。この辺は家の姉がカウンセラーだから詳しいと思うんだけど、そんな話兄弟でなかなかしないわけで。(まったく関係ないのですが、夢という言葉は昔は「はかなさ」と同意義で使用されていました。将来の希望を「夢」といいはじめたのは近代の話です。はかなさの発展が将来の希望をは、つまらない発展をしているのは人間自身ですね。)


トラウマは、外傷後ストレス障害(ptsd)なんて呼ばれ方をしているようです。

心像、思考、知覚にフラッシュバックによって感覚的(あるいは錯覚、幻覚的)に現れる。


精神的外傷。


傷は治る。トラウマを訳した日本人がどこの大学教授か知らないが、相当博学で人間身のある人だというのがわかりますね。

外傷ですからね。簡単に考えたのかも知れないし、安易に捉えるべくして外傷と名を使ったのかも知れません。


フラッシュバックということは、精神とはいえど、肉体的には脳の海馬と繋がっているように思います。

高度のストレスや障害、恐怖によって海馬は小さくなるそうです。海馬は新しい記憶を溜め込む場所です。

要は新しい記憶を貯める場所がトラウマによって障害を受けてしまい、新しい物事が入ってこない。古い記憶がいつまでも海馬に残ってしまったり、海馬はデリケートですから、方向性によってはその残った記憶が暴走することがあります。おそらくこれがパニック障害などに繋がるんでしょうか。


医学的にはトラウマによる海馬の障害の直接的な治療(薬品など)はあまりされていないようです。

やはりカウンセラーにゆだねられるのでしょうね。


カウンセリングも技術ではなくおそらく能力なんでしょう。ただ、信仰ではなくて科学に近い反面も持っていてるのも確かです。

その方向性はとても重要で、要は外傷だからの話でしょう。傷は治る。


とりあえず、恐怖心、ストレス、障害をゆっくり取り除いて、海馬を拡大させ、新しい記憶をいれる(これが大事)。フラッシュバック?何それ?って感じに。


最近とても充実しています。


見る人によってはよくわからないものになりましたね笑。


もう半年くらい言っているのではないだろうか。ソファーがほしいのである。

今日はソファーを買いに友人を誘い目黒の家具屋があつまる通りに行って来た。

モノさえあればいつでも買う用意はできているのだ。

1ヶ月前くらいに宇都宮で購買意欲をそそられるソファーに遭遇したのだけれど、東京には配送しないと断固として断られてしまった。宇都宮以外の人間は2tトラックでも乗っていかないと買えないという不親切さだ。


今年は街に出るたびに家具屋など覗いてはみてしているのだけれど、どうもしっくりこない。

欲しいのは足が伸ばせるカウチタイプのものなのだけれど、店内でも場所をとる為か、中型店舗に置いていればいいほうなのである。

1店舗の1ソファー。

これまではなかなかいいものが見つかるわけはない。

近くに大型のikeaというスウェーデンからきた参入してきたインテリアショップが4月にできたのだが、そこでもみつからなかった。

横浜のワールドポーターズに大量にあることはわかっているものの、横浜にいた床屋が田舎に帰ったのでなかなか足が向かないのである。

行ってみつからないことを考えると横浜などなにかのついででもない限り行くことはないのだ。


netでは目新しいものはあるのだけれど、なんせ座ることができない。

身体に触れるものを触れずに買うなんてギャンブルはできないし、自分はギャンブルは嫌いなのだ。(うるさい、汚い、臭いなどの要素が日本のギャンブルには染み付いている)


いつかみつかるまで待つしかないのか。オーダーなんて面倒な事もしたくないし、高くつくだろうし。


こんな話はもういい。


ソファーみた帰りにレコード屋に寄って、dillの新作とjuana molinaの4枚目を購入。

聴きたい中古盤がみつからなかったので(少し前なら無理してもみつけてたんだけど、いい加減いらない音楽は持ちたくないのだ。家にある20分の1はいらない音楽なのだから)


地元について古本屋にも寄る。

今日もおっさんは汚い格好で汚い本に囲まれ何やらグットミュージックを弾いている。いらっしゃいのど言ったためしがない。とても落ち着く古本屋だ。(落ち着きはあるが、1000本に1冊くらいしか興味のそそる本はない。

今日は山下洋介の「ピアニストを2度笑え」がなんと900円で見つかる。神保町なんかじゃ廃盤価格で5000円とか平気でつける店もあるというのに、当時の定価のままである。

あと前にも書いたが毛嫌いしていた村上龍さんの文庫を2冊で400円ほどで買う。

どうやら龍さんは菊池成孔と同じ匂いがするのである。5冊読んでまだ嫌いだけど。(買ってしまうのだからどこかで気になってしまうのだろうけど、龍さんにはイライラさせられる。おそらくコンプレックスなのだけど。

何よりもコンプレックスが生甲斐につながっているから、やばい人どんどん見ないと終わってしまうわけです。

勝手なこというと荒俣宏とか立花隆なんてコンプレックスでできたようなもんだ。河童も中原もそうか笑。


で


3冊で1300円。

本屋のおっさんはいつも財布からお釣りをだす。

小銭が

財布になく、1万円だすと、「あるかなー」なんて言って財布の札入れから1000の束をだし数えだす。

「6000円しかないやーハハハ」なんて笑っている。

おそらくこの店に現在6000円しかないのである。


「じゃあ向かいのスーパーで買い物してからきますよ」なんていうと。


なんとおっさん


「いいよ」


一瞬スーパーに行ってきていいよ、というふうにもとらえれるが、おっさんの発音ではお金はいいよということらしい。

「いいの?」と聞き返す。

「今日はもう閉店だから」とおっさん。


素敵な理由である。


3冊の本とおっさんの愛がタダで手に入ってしまったのだ。

おっさんになにかお礼をと考えるもおっさんの痩せた姿を見ると食べ物がいいのでは・・・なんて失礼なイメージをもったりする。


食べ物にしよう。


3冊の本とおっさんの愛を握り締めながら、三鷹にいた頃よく言った古本屋を思い出す。

上々堂 である。1年前にもここに書いたが、35くらいの秋吉久美子が言う雰囲気美人みたいな女性のお店である。

リッキーリージョーンズなんかがよく流れていて、他にはない雰囲気である。

ここの人も美人とはいえ、やはり変な人で、一度留守番させられた時がある。

お昼頃に店に入ったのだが、どうも女性美人がチラチラこっちをみているのがわかる。30分くらいそんな感じで気でもあるのかなんておもったりなんかしていると、「あのー」なんて声がかかる。

「まだお店いますか?」


意味深である。


「いますよ」なんていうと。


「お昼を食べてくるのでお留守番してもらえますか?」


「・・・・・・いいですよ」


30分くらいお留守番である。その間一人主婦が入ってくてレジで店員を探している様子だったので、「お昼みたいです」なんて伝える。なにをしているのだ。


古本屋になる人間はこうでなければいけない。


35までにこうゆうレコード屋をしたいものなのだけれど、割と商売しちゃうんだろうなと自分の性分をみて思う。

最近毛嫌いしていた村上龍さんをまとめ買いして、少しづつ読んでいて書きたいことがいっぱいあるんですが、時間がもったいないので、またあとで書きます。

おやすみなさい。

身体がおっつかなくなってきた笑。

今日は一日使ってmixcdをつくった。

mixcdを作るときは普段一発録りが多いのだけれど、それはリズムと勢いに頼ったもので、前に録ったものを聴いているとなんだか疲れてしまった。

mixの目的は人によって様々で、ある音楽を再構築する人、踊り狂わせたい人。いろいろだとおもう。

もともと高校の頃に、あまり知らない先輩がターンテーブルを売りたがって買い手を捜しているという友人の話を聴いて、なんとなく始めたわけだけれど、もとはrock少年。

田舎なので、あの先輩ターンテーブルをもっているらしいよ。なんて話にもなるし、一つ上の世代で3人と同世代で2人が所有しているのがすぐにわかった。多分ホント周辺の市の人間で20人ももっていなかったんじゃないかという話だ。クラブもないし。

周辺の話をうわさで聞いていると、どうやら20人にみたないのではないか田舎疎外DJsは、くだらないhiphopや洒落ただけのhouseをやっているという話だった。

そんな話を横目に、今年結婚した同士とともに懸命に好きなrockをつなぎまくっていた。2人だけで高価な廃盤なんか買って・・・。(あれは田舎価格なのだということはあとになってわかったことだが・・・)

ほとんどラジオ状態である。

あるとき仙台にロンドンナイトが来たので遊びにいってみると、大貫さんや、ARATAや稲葉さん、HIKARU

なんかがほとんど同じ事をやっていた。

MIXとかじゃないわけ。テクニックってなに?ってかんじで。

ただかっこいい。

これでいいんだってすっきりした。


専門で東京に来ていろんなレコ屋に言って、いろんな音楽聴いて、結局想像がつかないむずかしい音楽が好きで、でもターンテーブルや機材があって。

たまに思うのが単調な音楽が好きだったらmixでこんなに悩んでないのかななんて思うわけです。


いまはjazzや変拍子やグチャグチャな音楽やノンリズムが好きだったりするから構成考えないとまとまんないわけです。

イベントやるときも必ずおおまかなset組んで客の反応なんて鼻から気にしてない。

だれか一人でも脳内ゆらせたりできて、終わったあと話しかけられたりなんかすれば、100人が無視しても満足なのだ。


だめだ!!サッカーはじまった!!がんばれ日本!!

この話は次回に続かないとおもう。

今日は例のランニングとタバコを買いに行き裸体の走る女をみた時以外は外にでず、曲を作っていました。

今になって思うことが、その間の記憶がかなり薄い事です。

一人だと人は考えることをするのが自然であって、自分自身も例外ではなく、なんとなくいろんなことを考えながら曲をループさせていたわけですが、たいして記憶に残らないんです。

感じた記憶よりも先週、人と話した記憶のほうが新しさすら感じます。

記憶だけに留まらず、自分の考えというのも大体が人との会話や出来事から根付いていることもわかります。(もちろん会話した後で、考え直し整理はしますが)


なんとなく人との会話が自己形成にはつながっているんだなと思わされただけです。


ついさっきブログを書き終え、これから作るmixcdの為に小雨の中、レアルマドリッドのユニフォームでタバコをまとめ買いしてくる。(mixを作り出すと永遠タバコを吸っているのだ。)


すると、向こうからダッシュで走ってくる人がいる。いつだったか書いた斑点少年に続き、今度は上半心裸体ダッシュ女である。

一様胸元を隠し不自然な姿勢で髪を振り乱しながら走っている。

事件か罰ゲームか。

気にはなるが上半心裸体ダッシュ女を追いかければこちらに問題がでてくる。

こうゆう時いつもバロウズの言葉が思い浮かぶ。「面倒な出来事には自ら身を投じています」。

バロウズなら追いかけていたに違いない。


上半心裸の女を外で見たのは2回目である。

中学の時、朝学校に行く途中にそれはいたのだ。