私は、ずっと「何も問題のない世界」の感覚を覚えていて。
たまにその感覚が、道端を歩いていて料理店の前を通った時、食べ物の匂いがふっと香ってくるような…そんな空間の隙間のように、感じることはあったのだ。
私の元いたところはそこだと感じて来たし、
このブログやメルマガでも、たまに触れてきた。
自分を癒して行った先には、
きっとあの世界があるんだと思っていたんだ。
何も問題のない世界。
そこには、感情も、ほとんど生まれないのね。(私のいた「問題のない世界」というのは、そうなの)
ここ最近は、
その「問題のない世界」に、まだ戻りたくないでいる自分も感じていて。
だって、すぐそこにあって、いつでもそこに行けるんだけど、まだそこには行っていないってことは、本当にはそこに行きたくないってことだから。
まだどこかで怖がっていたくて、
悩んでいたいのだ、と。
人間でいたかったのかも(笑)
人間じゃなくなるようで、まだしがみついていたかったのかも。
出てみたら、
やっぱり人間らしさはなくなった気がした。
↑サラッと重大発表
動物か植物にでもなったみたいな気分なのね。それか、妖精?
出てみて気づいたのは、
最後の最後は、
「世界観を癒す」ことだったということ。
ネガティブな感情はすべて、
無価値感という土から生えている、幹や葉っぱのようなもの。
この無価値感を癒さない限り、
感情はいつまでも再生産され続ける。
この無価値感は、
「世界観」なのね。そして、概念でも思考でも言葉でもなく・・・「体感」だった。
自分を通して見るもの、聴くもの、感じるもの、すべてこの世界観を通して知覚しているよ。
色眼鏡とかも言えるのかもね。
自分は無価値だという世界観を「出て」
違う世界に身を置いた時、
自分の世界から、すべての問題は消える。
ネガティブな感情はもう、生まれなくなる。
元が消えるから。
(反射では出るけど、すぐに出られる)
不安も、悲しみも、寂しさも、失望も、怒りも、罪悪感も、、
無価値感から生まれているから、
それがなくなると、ネガティブな感情を、経験することすらなくなる。
あと、寂しさや悲しさ(無価値感、満たされてない思い)がベースにある時の、満たされた喜びって強烈だったんだなぁと思うんだ。
無価値感から出た時、喜びとか楽しさもかなり穏やかなものになった。
人間らしさがなくなったかもと言った理由はこれです(笑)
感情の動きが、ほとんどなくなるから。
これはね、もとから私のデフォルトがそれに近かったのかもしれないけど。
人によるんじゃないのかな?
世界観(無価値感)を癒しきったあと、
ポジティブ(統合的・あたたかな)世界観に切り替える人もいるのかもしれないと思うんだ。
そうなったら、きっととてもパワフル。
創造していくの世界なのかな。
そこにいると、また感情や世界の感じ方は違うのかもしれない。
常に愛や喜びで満たされた感覚、というのも、体験できるのかも。
ただ、私はこの立ち位置(なんでもない世界)の人な気がするので、このまま行こうかしらと思っております。今のとこは、だけど。
なんでもない世界にいるとき人生がどういうものに感じられるかいうと、
「やること」を「やる」んだな、という感じ。
なにかしか「やること」は見えてくるのでね。
木だって、自我がなくても光合成して酸素吐くんだもの(笑)宇宙の自我かね?
(宇宙人じゃなくて木になるのか。笑)
というかね、むしろ今までの「これやったらどうなるんだろう(不安)」というストッパーがなくなるので、周りからは前以上に動いているように見えるようになるのかもしれんです。
でも、寝たいときに不安もないので、今寝てたーーいなんてときは、いつまでも寝てるかもしれませんけど(笑)
この感覚に慣れたらまた変わるかもだしね。それはそれで。
今回のはこの辺で。
かなりブログ(日記)的に書いたなぁ。。。
↑佐々木明里基準
前みたいな記事はもう書けなさそうなので、
これからの書き方模索中です。
「こう思われたらどうしよう」が全くなくなると、それはそれでどう書いていいかわかんなくなって書きにくいね・・・まぁいいや。。。
ではではみなさま、ごきげんよう~( ´ ▽ ` )ノ