私のいたところでは、多分、言葉によるコミュニケーションをしてなかったんだ。
つまり、名付けることをしなかった。
私、名前のない世界にいた。
ものに名前のない世界、の、感覚。
木を「木だ」と認識するんじゃなくて、
その存在を、自分の感覚全体で、ただ感じてた…
花は花ですらなくて、、ただそこに「在るもの」。
だから、木と、葉と、土と、虫と、空とを、
分けて考えることを、もともとしなかった。
分けようがないから。
言葉があるから、分けることができるんだよ。
言葉のない世界では、世界は簡単にひとつになる。
個というより、全体を見つめる感じになるし、、、
見つめるという意識すらなくて、ただ「感覚する」。
感情にも、名前がなかった。
感情と呼ぶエネルギーを感じたとしても、それを「名付ける」ことも、していなかった。
「悲しみ」とか「怒り」とか
(まぁそもそもそういうエネルギーを感じることはあまりなかった気はするんだけど)
感じたとしても、ただの体の感覚として感じていたのね。
嬉しい、という感覚は、「嬉しい」じゃなくて、広がるような感覚だったり、味わうものだった。
だから、身体全体でその感覚のエネルギーを感じられた。
なんかね、すごいパワフルな感覚なんだ。
それも「自分が感じている」というより、エネルギーの海に漂う感覚。
「自分」という感覚すら、あまりなかったのかもしれないなぁ。
「自分」すらも、言葉が生むのかもしれないね(笑)
(↑でもちゃんと、「個」としての感覚もあったよ)
星にいたときの感覚は、地球の感覚でいうと「しあわせ」とか「至福」の感覚に近かったとは思うんだけど、
それも、そういう名前をつけずにただそのままを「感覚」として感じてた。
ふわぁっと広がるようなここちよさ、絶対的な安心感、つながっているという感覚、言葉にするとそういう感じだと思う。
人、というか目の前の存在も、ただその存在を感じてた。
その人がどんな人だとかっていう「定義」付けも、
全部、言葉があるからできることなんだよ。
自分とこの人は「夫婦だ」とか「友達だ」とかって関係性が生まれるのも、言葉があるから。
「関係性」っていうモノも、きっと地球独特の概念なんです。
それと、、、
言葉の働きっていうのは、
分けるだけじゃないかもって感じるんだ。
言葉のなかった世界の感覚から、地球での「名前をつける」ということを見たときに、
名前をつけることで、失うものがあるな、と感じたから。
モノに対して名前をつける。
感情に対して名前をつける。
人との関係性に対して名前をつける。
そうして名前をつけるってことは、
文字、言葉というものにエネルギーを注ぐことだと感じたの。
言葉って、物質に近いものだなぁと(ほんと、地球っぽいよね)。
言葉にする=物質の形を取ろうとすること。
物質の形を取ろうとする、物質化することって、ものすごいエネルギーを注いでしまうことなの。
言葉という入れ物にエネルギーが注がれてしまう分、
どうしても取り漏らしてしまうものがある。
感情もそう。感情を「悲しい」とか「うれしい」と言葉にすることで、
言葉そのものにエネルギーが注がれてしまって、
本来のエネルギーが削がれていたりする。
言葉で何かを感じようとするときって、
身体というか、感覚じゃなくて、
アタマで感じている部分が大きいのかもね。
五感+アタマで認識することって、
自分の知っている「型」に当てはめようとしているだけであって、
それそのものなんか、ちっとも見ていなかったりするよ。
自分のアタマの中にあるだけの世界。。。
あるがまま。
とか、
そのまま。
って、言葉にしない世界にいるときに、本当にその意味が伝わる気がするなぁ。
言葉のない世界の。。。
まるごとの世界が迫ってくる感覚 って、
地球の感覚に浸っている身だと、
その感覚を思い出そうとするだけで、
ちょっと、圧倒されるから。