私の中に感覚としてある、
働くという概念のない世界の話。
たとえば、一日中空を眺めているだけで、「なにもしていない」ような人もいる。
それでも、その人は生きていけるんです。
その人は何も差し出していないようでも、その人に対して、ある人は食べるものを提供し、ある人は住まいを提供する。
その世界では、
それを「与えてくれる」人に、「直接」「何かを返す」必要はないの。
「わたしたちは、一体だ」という感覚があり、
常に「つながっている」感覚があって。
「私」が、「あなた」、
つまり「自分以外の存在」に何かを「する」という感覚じゃないんだ。
「私」が、「私」に対して「する」という感覚なの。
たとえば、右腕がかゆいとき、
左手でかきますよね。
でも、そのとき、右腕に「あげたから、なんかちょうだい」なんて言わないですよね。
そんな感覚なんです。
そこにいるのは、「わたし」で、「わたしの一部」で、
何かを「してあげる」という感覚も、ないんです。
自分が自分に対して自分に必要なことをするのは、当然だから。
「空を一日中眺めているだけのわたし」も、
自分の大切な一部だと知っているから、
「そこにいるわたし」がおなかがすいていたら、
「ここにいるわたし」が食べ物を提供して「当然」のこと。
そこにいるのは「おなじ、わたし」だから。
「そこにいるわたし」が存在していることがすでに「ここにいるわたし」にとっては「ギフト」であり、
(だって、左手がなかったら困るでしょ?)
「存在している」だけで、「そこにいるわたし」は「ここにいるわたし」に価値を提供してくれている、
つまり、「ここにいるわたし」が「そこにいるわたし」に何かを提供するのも当然のことなんだよね。
すでに、「もらって」いるから、「あげて」当然、というか。
というか、むしろ・・・
「あなた」という感覚がないんですよね。
「おおきなわたし」なんです。
右腕と左手のたとえで話すと、
自分のからだを動かすとき、
右腕をどうしよう、左手をどう動かそう、とか特に意識しなくても動きますよね?
自分の意思で動かせますよね?
私(佐々木明里)の左手は、私(佐々木明里)の意思で動く。
私の左手が「右腕がかゆいから、かく!」と言い出すこともない。
「かゆいと感じるから、かゆい右腕を、左手を使って、かく」だけ。
あるのはただ、「私(佐々木明里)」という意識だけ。
右腕と左手は、ただ単に「わたしのからだ」なんだ。
右腕と、左手にそれぞれ「自我」があるわけではないの。
だって、そもそも別々の存在ではないから。
「おおきなわたし」という意識があるだけなんです。
「あなた」という存在が、いないんです。
そうなの。
「あなた」という感覚が、存在しないんだよ!
だから「働く」という感覚もないの。
自分が自分のからだを動かしているだけだから。
左手に、左手できることをさせているだけだから。
ほんと、ただただすべて「自分」という感覚、それだけなんだよね。
言葉にすると、
よくわからない感じだけどなぁ(笑)