https://www.youtube.com/watch?v=DS5C2KWfF-g

 

 

 

 

芥川の原稿 

室生犀星 

 

 


 まだそんなに親しい方ではなく、多分

三度目くらいに訪ねた或日、芥川の書斎

には先客があった。

 

 

先客はどこかの雑誌の記者らしく、芥川

に原稿の強要をしていたのだが、

 

芥川は中央公論にも書かなければならな

いし、それにも未だ手を付けていないと

いって強固に断った。

 

 

その断り方にはのぞみがなく、どうして

も書けないときっぱり言い切っているが、

 

先客は断わられるのも覚悟して遣って来

たものらしく、

 

なまなかのことで承知しないで、たとえ、

三枚でも五枚でもよいから書いてくれる

ようにいい、

 

引き退がる様子もなかった。

 

 

三枚書けるくらいなら十枚書けるが、材

料もないし時間もない、

 

どうしても書けないといって断ると、

 

雑誌記者はそれなら一枚でも二枚でもよ

いから書いてくれといい、

 

芥川は二枚では小説にならないといった。

 

 

 

先客はあなたの小説なら、元来が短いの

であるから二枚でも、結構小説になりま

す、

 

却って面白い小説になるかも知れないと

いって、あきらめない、

 

一種の面白半分と調戯半分に、実際書け

そうもない本物の困り方半分を取り交ぜ

て、

 

どうしても芥川は書けないといい、先客

はやはりねばって二枚説を固持して、何

とかして書いてくれといい張った。

 

 

 

断る方も、断られずにいられないふうが

次第に見え、何とかして一枚でも書かそ

うという気合が、

 

この温厚な若い雑誌記者の眉がぴりぴり

ふるえた。

 

 

 

こんな取引の烈しさを初めて傍聴したが、

私はまだ小説を書かなかったから、

 

流行作家というものの腰の弱さと、えら

そうな様子に舌を捲いていた。

 

 

恰度、私自身もひそかに小説を毎日稽古

をするように、三、四枚あて書いている

時だったので、

 

芥川と雑誌記者の押問答に、芥川という

作家がどんなに雑誌にたいせつな人であ

るかを、眼のまえにながめたのである。

 

 

こんな頑固な断り方が出来るという自信

が、私には空恐ろしかった。

 

 

しかも、芥川の断り方は余裕があって、

らくに断っていて心の底からまいってい

るとか、

 

遠慮しているとかいうところがなく、堂

々としてやっていた。

 

 


 実際どんなに忙しくても、雑誌記者の

訪問をうけると、その日の芥川のように

高飛車に断われるものではない、

 

 

断るにも、どこか謝まるような語調を含

めるのが礼儀であった。

 

 

芥川は旭日的な声名があったし、雑誌に

は、その二枚三枚の小説でも、

 

巻末を飾るためのはればれしさを持って

いたから、この雑誌記者の苦慮がおもい

やられた。

 

 

最後に記者は、では来月号に執筆する確

約をうけとると、やっと座を立った。

 

 

怒りも失望もしない真自面一方のこの人

は、「改造」にいまもなおいる横関愛造

氏であることを、あとで知った。

 

 

 

その時代でもこんな烈しい断り方を誰も

していなかったし、いまの時勢にもこん

な断り方をする作家は一人もいないであ

ろう、

 

 

雑誌記者は原稿をたのむときはどうかお

願いするといい、書いて原稿をうけとる

と有難うといってお礼をしてゆく人であ

る。

 

 

その場合、作家が上手のようであるが、

実際は作家というものは雑誌記者が怖い

者の一人であり、

 

一等先きに原稿をよんで原稿がよく書か

れているかどうかを、決める人なのであ

る。

 

 

作家という手品使いが最初につかう手品

を見分ける雑誌記者に、いい加減な手品

をつき付けるということはあり得ない、

 

 

 

雑誌記者は原稿の字づらをひと眼見ただ

けで、内容とか作品の厚みとかをすぐ読

み分けるかんを持っているから、

 

油断がならないしおっかない人なのであ

る。

 

 

流行作家芥川龍之介はその名前の変てこ

なのが、逆効果を見せて隆盛をきわめて

いた。

 

 

 

その日、そこに居合せた私の手前、私に

ちょっとくらい偉さを見せてやろうとい

う気なぞ、少しも持っていない、

 

 

書けないものを断るまじめさと、次第に

昂じる困惑さをみせていた。

 

 

横関愛造氏があれほどねばっていたのも、

山本実彦氏の厳命をうけていたからであ

ったろう。

 

 

 

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=mjKffhGQoWA

 

 

 

 

愛の詩集 

室生犀星 

 

 



 私の室に一冊のよごれたバイブルがあ

る。

 

椅子につかふ厚織更紗で表紙をつけて背

に羊の皮をはつて NEW TESTAMENT. とか

いて私はそれを永い間持つてゐる。

 

十余年間も有つてゐる。

 

それは私の室の美しい夥しい本の中でも

一番古くよごれてゐる。

 

私は暗黒時代にはこのバイブル一冊しか

机の上にもつてゐなかつた。

 

寒さや飢ゑや病気やと戦ひながら、私の

詩が一つとして世に現はれないころに、

 

私はこのバイブルをふところに苦しんだ

り歩いたりしてゐた。

 

いまその本をとつてみれば長い讃歎と吐

息と自分に対する勝利の思ひ出とに、

 

震ひ上つて激越した喜びをかんじるので

あつた。

 

私はこれからのちもこのバイブルを永く

持つて、物悲しく併し楽しげな日暮など

声高く朗読したりすることであらう。

 

ある日には優しい友等とともに自分の過

去を悲しげに語り明すことだらう。

 

どれだけ夥しく此聖書を接吻することだ

らう。
 

 

 

 

 

 

 

 

故郷にて作れる詩

 

はる

 

 


おれがいつも詩をかいてゐると
永遠がやつて来て


ひたひに何かしらなすつて行く


手をやつて見るけれど
すこしのあとも残さない素早い奴だ


おれはいつもそいつを見ようとして
あせつて手を焼いてゐる 

 


時がだんだん進んで行く


おれの心にしみを遺して
おれのひたひをいつもひりひりさせて行


けれどもおれは詩をやめない


おれはやはり街から街をあるいたり
深い泥濘にはまつたりしてゐる 

 

 

 

 

桜咲くところ


私はときをり自らの行為を懺悔する


雪で輝いた山を見れば
遠いところからくる
時間といふものに永久を感じる 

 


ひろびろとした眺めに対ふときも
鋭角な人の艶麗がにほうて来るのだ 

 


艶麗なものに離れられない
離れなければ一層苦しいのだ 

 


その意志の方向をさき廻りすれば
もういちめんに桜が咲き出し


はるあさい山山に
まだたくさんに雪が輝いてゐる 

 

 

 


 

万人の孤独


私はやはり内映を求めてゐた


涙そのもののやうに
深いやはらかい空気を求愛してゐた 

 


へり下つて熱い端厳な言葉で
充ち溢るる感謝を用意して

 


まじめなこの世の
その万人の孤独から


しんみりと与へらるものを求めてゐた 

 


遠いやうで心たかまる
永久の女性を求めてゐた 

 


ある日は小鳥のやうに
ある日はうち沈んだ花のやうにしてゐた 

 


その花の開ききるまで
匂ひ放つまで永いはるを吾等は待つてゐ 

 

 

 

 

 

蒼空


おれは睡いのだ
かれはかう言つてやはり睡つてゐた

 


かれの上には
大きな蒼蒼とした空が垂れてゐた 


かれの目は悲しさうに時時ひらく


日かげはうらうらとしてゐる 


地主が来て泥靴をあげて蹶りつけた


けれどもかれはすやすやと


平和にくつろいで寝てゐた 

 


やがて巡査が来て起きろ起きろと言つた


かれはしづかに眼をあいて

 

また睡つてしまつた 

 


みんなは惘れてかへつて去った


草もしんとしてゐた


蒼空はだんだんに澄んで
その蒼さに充ち亘るのであつた 

 

 

 

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=lTZsXd8Of7M

 

 

 

 

 

紅梅 

與謝野晶子

 

 

 

 

 




 私の庭に早咲の紅梅が一本ある。

 

東と南の光を受けて、

北を建物にふさがれてゐるためか、

 

十二月の半からぼつぼつ蕾を破つてゐる。

 

 

色は桃のやうに濃くも無く、

白い磁器の上に臙脂を薄く融かしたやう

な明るさと可憐さとを持つた紅である。

 

 

 

私は歳末から此の歳端へかけて快晴がつ

づくので、

 

毎日一度は庭へ下りて、

霜解のあとの芝生を踏んで歩き、

 

友人を訪ふやうな心持で落葉した木木を

見上げ、

 

最後に此の紅梅の傍へ來て暫く立つてゐ

る。

 

 

そつと枝を引き、

脊伸びをして一つの花を嗅ぐこともある。

 

ほのかながら心に徹する清い香である。

 

 

 

支那の詩人が「寒香」と云つたやうな好

い熟語の我が國語に無いのが惜まれる。

 

東坡が紅梅を詠じて

 

 

 

「寒心未肯隨春態、

酒暈無端上玉肌」

 

 

 

と云つたやうな妙句は、

我國の歌にも新しい詩にも見當らない。

 

併し東坡の心には酒があるので、

紅梅を見ても微醺を帶びた仙女を聨想し

たが、

 

私には此の冬枯の庭にある木のなかで、

此の紅梅だけが明けて十一になつた末の

娘のやうな氣がする。

 

 

 

貧しい中に育ちながら、末の娘は品好く

生長してゐる。

 

私達の子供の中で此娘だけが文學的であ

る。

 

細やかに痩せて、

よく風を引いて熱を出すやうな體質は氣

遣はれるが、

 

氣立の優しいのと、

讀書と創作が好きで、

 

豐富な空想を持つてゐるのとが、

本人自身を樂ませてゐる。

 

 

早く親に別れる運命を持つてゐて物質的

には苦むであらうが、

 

その文學的であることが、

人知れず一生の慰安となるかも知れない。

 

 

 

正月二日のはげしいから風で紅梅が大分

吹き散らされた。

 

さうして末の娘はその夕方から熱を出し

て寢てゐる、

 

私は今朝も娘の寢臺の傍で人から來た賀

状を讀みながら、

 

猶をりをり窓越しに紅梅を眺めてゐる。


 

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=-97hhvOBhtg&t=733s

 

 

 

 

六日間 

(日記)

與謝野晶子




 三月七日


 机の前に坐ると藍色の机掛の上に一面

に髪の毛の這つて居るのが日影でまざま

ざと見えた。

 

私はあさましくなつて、何時の間にか私

の髪がこんなに抜け零れて、さうして払

つてもどうしても動かずに、

 

魂のあるやうにかうして居るのかとじつ

と見て居た。

 

さうすると落ち毛が皆一寸五分位の長さ

ばかりであるのに気がついた。

 

また昨日の朝八峰の人形の毛が抜けたと

云つて此処へ来て泣いて居たのを思ひ出

した。

 

頭が重い日である。

 

源氏の藤の裏葉を七枚程書いた処へ、画

報社から写真を撮しに来た。

 

七瀬と八峰が厭がつたから私と麟とだけ

で撮つて貰つた。

 

私は着物を着更へた序でであるし、頭も

悪いのであるから買物にでも行つて来よ

うと思つた。

 

高野豆腐の煮附と味附海苔で昼の食事を

して私は家を出た。

 

××新聞社に用があつたから数寄屋橋で

電車を降りた。

 

××さんが居なかつたから××新聞社へ

行つたのは無駄だつた。

 

有楽町の河岸を歩きながら、尼さんのや

うなものをばかり食べて居るからこれば

かしの道でも苦しいのだと情けなく思つ

た。

 

 

三越の二階で羽織を一枚染めるのを頼ん

だ。

 

二三日前の夜ふと考へて面白がつた酔興

のことも、いよ/\紫紺にしてくれと云

ふ時にはもう恥しくなつて廃めようかと

迄思つたのであつた。

 

 


『少しおはででは御座いませんでせうか。』


と云つた番頭さんに私は自分のぢやない

と云つた。

 

紙入を一つと布団の裏地を一疋と晒を二

反買つて届けて貰ふ事にした。

 

神保町の通りで近頃出来た襟店が安物ば

かり並べてあるのが何だか可哀相な気が

して立つて見て居ると、

 

小僧さんが何とかかとか云つてとうとう

店の中へ私を入れてしまつた。

 

元園町の女中に遣らうと思つて四十五銭

と云ふ紅入のを一掛買つたが、

 

外にも何か買はせようとする熱誠と云ふ

ものが主人と小僧さんの顔に満ちて居る

ので、

 

気が弱くなつて鼠地に蝶燕の模様のある

襟を私のに買つた。

 

腹立だしい気がした。

 

平出さんへ寄つた。

煙草が欲しいと云つたらエンチヤンテレ

スはないと笑はれた。

 

私のために送別会をしてくれないやうに、

着て出る着物がないから今からお頼みし

て置くのだと私は云つた。

 

昨日も平野君がその話をして綺麗な自動

車にあなたを載せて街を皆で歩かうかな

どゝ云つて居たと平出さんは云つた。

 

 

玉川堂で短冊を買つて帰つた。

 

子供等は持つて帰つた林檎をおいしさう

に食べるのであつたが、私は一片れも食

べる気がしなかつた。

 

夕飯の時に阪本さんが来た。

留守の間に浅草の川上さんのお使が見え

たさうである。

 

 


 八日


 昨夜は雅子さんの夢を見た。

 

雅子さんに手紙を書かうかなどゝ朝の床

の中では考へた。

 

川上さんの女の書生さんが見え、吉小神

さんが来た。

 

昨日の続きの仕事をして居たが昼頃か

ら少し頭痛がし出した。

 

湯にでも入つて来ようと思つて、七瀬と

八峰を伴れて湯屋へ行つた。

 

帰つて来て髪を解いたがいよいよ頭痛が

烈しくなつて身体の節々も痛くてならな

くなつて来た。

 

 

修さんが来て短冊を欲しいと云ふので五

枚書いて渡した。

 

来月の末に加藤大使が英国へ帰任するの

にシベリヤ鉄道で行くから、同行を頼ん

でやらうかと役所で云つてくれた人があ

つたが、

 

船に決めたと云つて断つたと聞いて私は

残念でならなかつた。

 

 

新潮社の中村さんが来た。何度逢つても

例のやうな私には覚える事の出来憎い顔

であるなどと話しながら思つて居た。

 

 

夕飯を味噌漬の太刀魚で食べた。

光が煮しめばかり食べて魚を余り食べな

かつたからソツプを飲ませた。

 

玄関の土間の暗くなつた頃に平野さんが

来た。

 

これから暁星の夜学に行くのだと云つて

腰を掛けた儘で話した。

 

先刻聞いた加藤大使の話をすると、さう

して汽車に乗つて行つたら好い。

 

免状なんか書き替へて貰へば好いと例の

調子で云つてくれた。

 

然しその話が外から来たのではなし、汽

車の旅を大反対の修さんの持つて来た話

なのであるから、

 

私は苦しんで居るのだ、出来さうにない

わけだと私は思つて居た。

 

 

茶の間へ来ると、
『母様は面白い人ね、平野さんのお父さ

んと話してたのでせう、平野さんぢやな

い人と話をするなんか。』


 と七瀬が云つた。

平野さんだと云ふと、


『さう、やつぱし平野さんの子供の方な

の。』


 と驚いたやうに云つて居た。

 

 

子供の床をとつて居るうちに倒れる程

頭が痛んで来た。

 

私は昼の着物を着たまゝで子供の寝る時

刻から床に入つて居た。

 

私は眠りさうなのであるが桃が明日の買

物に行くと云ふのを留めるのも何だと思

つて、


『ああ。』
 と云つて出してやつた。

 

 

桃は玄関の戸を閉め寄せて行つた。恐い

夢を見て目を開くと九時であつた。

 

桃を呼んで見たがまだ帰らないらしい。

 

風が戸に当つて気味の悪い音を立てゝ居

た。

 

私は今見た夢の中の心持ちの続きも交つ

て居て恐しさにどうすれば好いかなどゝ

思つて居た。

 

十五分程して桃が帰つて来たので嬉しか

つた。

 

頭痛はもう癒つて居た。

私は桃を寝させてからまた仕事をしだし

た。

 

十一時頃に藤の裏葉を書いてしまつて、

それから巴里へ送る手紙を書いた。

 

 

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=njndndLH6w4

 

 

 

 

巴里の獨立祭 

與謝野晶子 




 七月十三日の晩、自分は獨立祭の宵祭

の街の賑はひを見て歸つて、

 

子供の時、お祭の前の夜の嬉しかつたの

と殆ど同じほどの思ひで、

 

明日着て出る服や帽を長椅子の上に揃へ

て寢た。

 

夜中に二三度雨が降つて居ないかと聞耳

を立てもした。

 

けれど、それは日本の習慣が自分にある

からで、

 

高い處に寢て居る身には、雨が地を打つ

音などは聞えやうが無い。

 

マロニエの梢を渡る風がそれかと思はれ

るやうな事がままあるくらゐである。

 

そんなに思つて居ながら、夜更かしをし

たあとなので、矢張朝が起きにくい。

 

それに、此處は四時前にすつかり空が明

るくなつてしまふ。

 

神經質の自分には、到底安眠が續けられ

ないので、

 

眠い思ひをしながら何時も起き上るので

ある。

 

顏を洗つて髮を結つた時、女中のマリイ

がパンとシヨコラアを運んで來た。

 

まだ八時前で、平生よりも一時間ほど朝

の食事は早いのである。


「お祭を見に出るか」
 と良人が云ふと、


「ウイ、ウイ」
 と點頭きながら答へるマリイの目は嬉

しさに輝いて居た。

 

 


「祭は午後でないと見に行つても面白く

ないのだよ」


 と良人に云はれた時、自分はまた子供

らしい失望をしないでは居られなかつた。

 

讀書をして居ると十時前にマリイが廻つ

て來た。

 

何時もは午後四時過ぎでないと來てくれ

ないのである。

 

良人が市街の地圖を出して、何處が一番

賑やかなのかと聞くと、プラス・ペピユ

ブリツクだと云ふ。

 

其處は巴里市内の東に當つて革命の記念

像が立つて居る廣場である。

 

マリイは十一時頃に晴着のロオヴを着て

出掛けて行つた。

 

自分はトランクの上の臺所で晝御飯の仕

度にかかつて、有合せの野菜や鷄卵や冷

肉でお菜を作つた。

 

お祭だと云ふ特別な心持で居ながら、や

はり二人ぎりで箸を取る食事は寂しかつ

た。

 

一時半頃に服を更へて家を出た。

 

 


「まあペピユブリツクへ行つて見るんだ

ね」
 と良人は云つて、

 

ピガル廣場から地下電車に乘ることにし

た。

 

人が込むだらうからと云つて一等の切符

を買つたが、車は平生よりも乘客が少か

つた。

 

同室の四五人の婦人客は皆ペピユブリツ

クで降りた。

 

この停車場は餘程地の上へ遠いのでエレ

ベエタアで客を上げ下しもするのである。

 

音樂の囃を耳にしながら何方へ行かうか

と暫く良人と自分は廣場の端を迷つて居

た。

 

聞いた程の人出は未だないが、ルナパア

ク式の興行物の多いのに目が眩む樣であ

る。

 

高く低く上り下りしながら廻る自動車臺

の女七分の客の中に、

 

一人薄絹のロオヴの上に恐ろしい樣な黒

の毛皮の長い襟卷をして、

 

片手で緋の大きな花の一輪附いた廣い帽

を散すまいと押へた、水際だつて美しい

女が一人居た。

 

子供客は作りものの馬や豚に乘せて回轉

する興行物に多く集まつてゐる。

 

聞けばミカレエム祭や謝肉祭のやうに人

が皆假裝をして歩いたり、

 

コンフエツチと云ふ色紙の細かく切つた

物を投げ合つたりする事はこの日の祭に

はないのである。

 

 

 

自分等はそれからルウヴル行の市街電車

に乘つた。

 

初めて自分は二階の席へ乘つたのである。

 

細い曲つた梯子段に足を掛けるや否や動

き出すので、其危ないことは云ひ樣もな

い。

 

唯この蒸暑い日に其處ではどんなに涼し

さが得られるか知れないと云ふ氣がした

のと、

 

ルウヴルが終點であるから降りるのに心

配がないと思ふからでもあつた。

 

この祭は勞働者を喜ばす祭と云はれて居

るだけあつて、

 

高い席から見て行く街街の料理店には酒

を飮んで歌ふ男の勞働者、

 

嬉しさうに食事をして居るマリイの樣な

女の組が數知れず居た。

 

惡い氣持のしない事である。

 

自分等は電車から降りてルウヴル宮に沿

うたセエヌの河岸のマロニエの樹下道を

歩いてトユイルリイ公園へ入つた。

 

 

 

上野の動物園前の樣な林の中の出茶屋で

休んで居ると、傍で鬼ごつこを一家族寄

つてする人たちも居た。

 

コンコルドの廣場へ出ると各州を代表し

た澤山の彫像の立つて居る中に、

 

普佛戰爭の結果、獨逸領になつたアルサ

ス、ロオレン二州の代表像には喪章が附

けられ、

 

うづだかく花輪が捧げられてあるのを見

て、外國人の自分さへもうら悲しい氣が

した。

 

花を手向けたい樣な氣もした。

 

けれど其廻りを取卷いた人達は何も皆悄

然として居るのではない。

 

未來に燃える樣な希望を持つ人らしい面

持が多いのであつた。

 

 

 

それから自分等はシテエ・フワルギエエ

ルの滿谷氏の畫室近くまで、また地下電

車に乘つて行つたが、

 

滿谷氏等はもう祭見物に出掛けた跡であ

つた。

 

それから、カンパン・プルミエの徳永さ

んの畫室まで歩いて行つた。

 

氏とは昨夜宵祭を見て歩いたのである。

 

日本の話をした後で近日から自分が此畫

室へ油畫の稽古に通はして貰ふ約束など

をして、

 

氏と別れてリユクサンブル公園へ入つた。

 

そして、その近くのレスタウランで夕食

を濟して、また公園へ歸つて來た。