今更ですが 自己紹介します その1 | 【山形】【スピリチュアル】【オリン】 オリンMessengerよっしぃのブログ

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今ここ の感覚を味わい尽くす事 ありのままの自分と周りの人たちを受け入れること いつも自分の真実に繋がって生きること 自分を知り許して 人生をめっちゃ楽しんでいく!いつでも リアルを実験 冒険中です


オリンのチャネラー
あんどうたかえ よっしぃです
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いつも読んでくださって
ありがとうございます






ちゃんと自己紹介したことなかったなぁと思い
書いてみようと思いました。




では、はじまりから綴っていきます



1966年
ビートルズが来日した年
この身体に生まれました。

山形県山形市にて
父 母 のもと
長女として誕生
昼は近くに住む
祖母に預けられる
私の今世での一番古い記憶は
ハイハイしながらとてつもなく長い板の間を
目的地に向かって進む記憶
3歳下に妹が誕生
おばあちゃんちの記憶
たくさんあり



幼稚園に上がる頃
引越し
北山形から南山形へ

小学校に入学した日
初めて会う人ばかり
物怖じせず
4人がけのブランコに乗り込むと
「今〇〇ちゃんと話しているからあっちへ行って!」
と、拒否られ
えーーー?と驚愕する
小学校の中庭?での出来事
誰かと話していると私は入っちゃダメ?
ブランコを一緒に使っちゃダメ?
たくさんの意識のズレを感じた
小学校生活の始まりでした。

多分 友達がいなくても 平気な子でした。
"友達同士で秘密を持つ"のが苦手でした。

いつも、私の居場所はここじゃない
と思っていました。


母が私を叱る時
ご近所さんに笑われる
世間に申し訳ない
と叱る人でした。
そのせいか?
世間は敵
大衆は苦手
この意識をずーっと抱えていました。
前世にもリンクする経験をしていたこともあり
私の中で標準装備だったようです。

中学は部活に明け暮れ
何故高校に進学しなければならないのか?
と親や先生に真剣に質問して困らせました。
未来の為の今 という感覚を理解することが難しかったのです。

小学校中学校と
小さなコミュニティの中で育ち

高校に進学してから
かなりの
カルチャーショック←死語?を受けました。

全てにおいて
他者からの自分を意識して
自己否定の塊になりました。

高校時代
笑った写真が一枚もなく
記憶もほぼなく
友達だった人たちの
名前もあまり覚えていないのです。

そんなあまり
他人を干渉せず
干渉されない
生き方をしていたように気がしていますが
いつも 心の許せる友達がいて
三次元の生活の中では
あまり孤独を感じたことがありません。
とても幸せな事だと思います
小中の頃からの友達とは
中々会えないけれど
今も関係性が続いています。
本当に感謝です。

いつも リーダーを任されることが多く
本意だったり不本意だったりですが
小中高と生徒会をやっていて
高校の卒業式で
答辞を読んだりしました。


高校卒業後
地元の自動車会社に就職
同時にガールズバンドを始めて
夢中になり
一年ほどで仕事を辞め
音楽で身を立てようと模索しました。
バブル期だったこともあり
方々のイベントに呼んでいただき
ほか色んなラッキーが重なり
バンド活動だけで
しかも地元を出ずに
月収20万を体験したり
(その当時のお給料は手取り10万弱でした)
このまんま音楽で暮らせるんじゃないか?
と、勘違いしていましたねwww
三年後 メンバーの妊娠により解散

そこから
本格的フリーター生活が始まります
(同時はフリーター ニート等という言葉のない時代ですw)

ケーキ屋さん
喫茶店
イタリアン
化粧品の販売
貸金業電話受付
などなど
たくさんの仕事を経て

婦人服の販売に辿り着きました。

山形市七日町のショップにて
4年ほど仕事をしたのち
その仕入先メーカーからの
お誘いで
27歳の時に
メーカーの契約社員として上京します
東京 日本橋三越内の
婦人服のブランドショップに勤務し
売り上げに応じての
一年契約更新の
社会保険付き契約社員として働きました。


婦人服の販売をしている時は
山形でも、三越でも
お客様とお話をすると
うちのショップの中で
この方が一番お似合いになる服がわかり
ご試着の時に それも併せて提案すると
ご自分で選んだ服よりも
私が選んだ服を気に入ってくださる事がほとんどでした。
有難い事に固定客が付き
月曜から金曜までのコーディネイトを
ご提案させていただき
フルセットでお買い上げいただくという
週間コーディネイト販売が増え
客単価があがり
何より 私のプレゼンが受け入れられ
その方がますます素敵になっていくことが
本当に楽しくて
私にとっての天職だったと今も思っています。

三越での仕事の時の
忘れられないエピソードがあります。

そのショップは
その時代の寵児と言われた
カールラガーフェルドが監修し
日本でのオリジナルブランドとして展開した
お洋服を販売していたのですが
そのブランド的にも
とても大冒険の商材を企画販売したのです。
それは、秋冬の立ち上がり期にやってきた
カシミヤのコート
冬用なのにペールトーン
ピンク 水色 白 の三色
価格が確か46万円 たぶんw
まだ 汗ばむ季節にやってきた
そのコートを見て
私は一瞬で恋に堕ちました。
とてもとても素敵なコートだったのです。
いつもは、
"この方に一番似合う服"
をオススメしている私ですが、
このコートには
"このコートに一番似合う方を探そう''
と思ったのでした。
その結果
毎日お一人づつ
私の前に現れ
3日で、完売してしまったのでした。
あの三日間の喜びは
忘れないですね!
嬉しかったなぁ
出会えた事に感謝でした。
コートにも
お客様にも

そんな三越時代

上京し、初めての一人暮らし
初めての都会生活です

24時間が自分の時間
買い物全てが自分のため

本当に
自分がわかった貴重な時間でした。
たった一年半の東京暮らしでしたが
価値観の崩壊もありw
大切なことを
たくさん学んだ時間でした。

そして、
日本橋三越という
特異な立地もあり
日本のセレブの方々
海外のセレブと呼ばれる方々の
立ち居振る舞いや
生活のほんの一部を
垣間見る事が出来たことも
貴重な経験でした。


あの時間が
あの経験がなければ
きっと 今の私はないと思います

それくらい
井の中の蛙が
大海を見たような
意識の変容がやってきました。

そして
パートナーと
出会い直して

29歳で結婚

新潟で暮らしていた彼の
次の転勤先が偶然山形市になり
彼と生きることを選択し
仕事を辞め
山形に戻りました。


 
30歳で妊娠 
3ヶ月を待たずに流産

その後普通の生活を続けることが
だんだんと難しくなり
出産予定だった時期ごろより
誰にも会えず
家から出られなくなりました。
心療内科に通いお薬をもらいながら
毎日 泣いて暮らしていました。

このことがきっかけとなり
スピリチュアルに出会い始めます。

長くなったので
一度閉じます

読んでくださって
ありがとうございます。


続きはもうちょっとお待ちくださいね





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