皇女和宮降嫁のようすは凄〜い ① | akm48

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勘違いはお笑いの原点、悲しみの原点、成功の原点、失敗の原点

「私、歴史の時間は大嫌いやったんやって。」
「何年に何が起きたって無味乾燥なことが羅列してあったかって分からんが、あんなもん記憶したって何になるんやの。」

深紅の薔薇ちゃんや鷺草ちゃんはよく言うな。
「あんたはどうやったんやの?」
「僕?通知表にいつも赤座布団が敷かれていたな。歴史だけでなく殆どが赤座布団やったでな、先生に言いに行ったんじゃ。僕、まだ還暦ではないのでお祝いしてもらわなくてもいいざ。
「それぞれの科目の先生からのお祝いやから、黙って受け取って温まっていねの。ワシの科目からもお祝いしてあげようか?」

歴史の教科は特に人気がないな。
それでいて、教科書から離れると時代小説や歴史番組は結構人気があるのであるな。
それは、歴史とは人間が織りなすものであるのに反して教科書には人間が書かれていないのであるな。
昔からそうだろうか?
否、違う。戦後になってからである。
教科書問題は今まで何度も書いてきたので改めては書かないが、一つの例を示してみたい。

「皇女和宮降嫁」であるな。
皇女とは天皇の女(むすめ)と言う意味である。
これは、公武合体の象徴とされた皇女和宮の話である。
桜田門外の変で伊井直弼が暗殺されたことで、幕府の権威は地におちてしまった。
その幕府の権威をなんとか対立する朝廷と友好関係を築こうと老中安藤信正らが公武合体運動を推進した。
公武合体推進課題の中心が皇女和宮の第14代将軍徳川家茂の正室としての降嫁であった。
江戸時代はもとより、それ以前においても皇女が武家に降嫁し関東下向したことはなかった。
和宮は時の孝明天皇の異母妹であった。
皇女が武家に降嫁することは初めての問題だったし、和宮は有栖川宮熾仁(たるひと)親王と婚約していたのである。
孝明天皇は悩んだが、攘夷の実行と政治上の大事なことは朝廷に必ず相談することを条件に和宮降嫁を決断した。


徳川宗英(御三卿筆頭の田安徳川家第11代)によると、この降嫁に幕府が払った費用は370億円だという。
徳川宗英がいつの時点で言ったのか分からんないが、400億円以上と見たほうがいい。
おそらく日本で(世界でも?)一番費用のかかった婚礼であったろう。

その公武合体にも限界を感じ、薩摩藩の西郷隆盛や大久保利通らが幕府に見切りをつけ武力行使による倒幕を決意する。
坂本龍馬の仲介によって長州藩と薩長同盟が成立し、公家の岩倉具視(いわくらともみ)と連携し、慶応3年(1867)10月13日に朝廷から薩長へ第15代将軍徳川慶喜討伐の詔「討幕の密勅」を出させることに成功する。
同日に徳川慶喜は二条城大広間に在京の諸藩重臣を招集し、翌日14日に慶喜が朝廷に大政奉還を上奏し、260年あまり続いた徳川幕府が終わる。
しかし、大政奉還だけでは幕府の力は温存されるだけと考えた倒幕派たちは、同年12月9日に「王政復古の大号令」を発布させる。
そして慶応4年(1868)1月3日、鳥羽・伏見で薩長を中心とした新政府軍が旧幕府軍と激突、戊辰戦争が始まった。

僕らは中学時代に皇女和宮という名前を教わった気がするがどうだろうか?
この皇女和宮降嫁を今の教科書ではどう教えているのだろうか?

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◯柳 児
 上司より ジョッキがならぶ むすめさん

 *居酒屋光景
  会計はジョッキに、
  反比例かオゴリやざ。
  そうでないと仕事せんざ!
 酒つよい 女性上司に 部下はしゅん
 *早う、人事異動がないかな〜。
  体も神経も、
  もう持たん!
  これ、リストラかも・・・・。

◯忘己利他老
 閻魔さま 夫婦喧嘩 どちら勝つ?
 *三途の川・閻魔シリーズ
  初めから決まってるじゃろ。
  負ける喧嘩はしないって。
 孫が聞く 夫婦喧嘩 どちら勝つ?
 *おばちゃんシリーズ
  いつも見てるじゃろ。
  じい様はいつも、
  白旗上げてるじゃろ。

◯鷺 草
 酷暑あり 長雨ありて ノックダウン
 *本当にそうなったんじゃないの。
  預言者の修行を
  した方がいいんじゃない?
 飽食家 美食家の国 成人病
 *だからな、
  医者も儲かり、
  薬品会社も儲かり、
  スポーツジムも儲かり、
  経済がまわるんじゃ。